三重県

津城(安濃津城)【続日本100名城】細野藤光が築き藤堂高虎が大改修した名城

伊勢・津城

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津城(安濃津城)とは

伊勢・津城(つ-じょう)は、三重県津市丸之内にある輪郭式平城で、別名を安濃津城(あのつじょう)とも言います。
北は安濃川、南は岩田川に挟まれた場所で天然の外堀として活用もしていました。
津市の古いの地名は安濃津(あのつ)と言い、平安時代よりから伊勢の中心地として栄えていたようです。
鎌倉時代に、曾我兄弟に殺された工藤祐経の3男・工藤祐長が、伊勢平氏を討伐するため伊勢・安濃津に赴任しています。

南北朝時代になると、北畠氏が伊勢に進出し、争うようになりますが、戦国時代になって、その長野工藤氏の分家である細野藤光(ほその-ふじみつ)が伊勢・安濃城を築いて、細野城から居城を移したと考えられます。


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ここでややっこしいのですが、伊勢・安濃城は、伊勢・安濃津城とは、違う城でして、この辺り、混同している史料・情報も多いため注意が必要です。

その跡を継いだ細野藤敦(ほその-ほふじあつ)は、主家である長野藤定(ながの-ふじさだ)に従っていましたが、北畠晴具の侵攻を受けて、長野工藤氏は和睦します。

1558年、北畠具教と和睦した長野藤定は、北畠具教の次男・長野具藤を養子に迎えて家督を譲り、長野具藤(ながの-ともふじ)の代となったため、伊勢・安濃城主の細野藤光も臣従しました。
ただし、仲は良くなかったようで、安濃城を改修したようです。

なお、細野藤光は、安濃城下を流れる安濃川の下流にある安濃津に、小さな砦のような支城を築いたようで、これが安濃津城(津城)の起源とされます。
津と言うのは、今でいえば「港町」と同じ意味となります。

安濃津城

1568年になって、岐阜城主・織田信長が侵攻すると、和睦を唱えた弟・分部光嘉らの反対を押し切り、細野藤光は安濃城にて抵抗しようとします。
しかし、伊勢・上野城主である分部光嘉や川北藤元らは織田家に内応し、織田信包に長野工藤氏を継がせるよう画策します。
この時、細野藤敦が織田家に寝返ったとの噂が出て、長野具藤が安濃城へ攻め寄せたため、細野藤敦はやむなく長野具藤を撃退すると追放し、織田家に降伏しました。

1568年、織田家の一族である織田掃部頭(津田一安)が安濃津城(津城)に入っています。

安濃津城

1569年、伊勢・伊勢・大河内城が落城して北畠家が織田家に臣従すると、伊勢・大河内城には織田掃部頭(津田一安)が移ります。
そのため、伊勢・上野城を本拠としていた織田信包(長野信良)は、安濃津城(津城)の築城を本格的に開始して、元亀年間(1570年~1573年)頃に安濃津城(津城)に移っています。

安濃津城

滝川一益がこの地に城を築くよう進言し、縄張り(設計)も担当したともされます。
低湿地ながら防御には堅固な城でした。

安濃津城

津城には水堀と石垣が巡らせて、本丸・二の丸・三の丸が整備され、天正5年(1577年)には、5重天守と小天守が完成しました。

なお、細野藤敦は、長野工藤氏の当主となった織田信包とも仲が悪く、1577年、織田信包が年賀の挨拶に出かけた隙を突いて、謀反を起こし、伊勢・長野城を奪います。
しかし、当然、織田家から攻撃を受ける立場となったようで、滝川一益の子・八麿を細野藤敦の養嗣子に迎えることで降伏しました。

その後、1580年には、織田信包の軍勢によって居城・安濃城を攻められ、細野藤敦は日野城主・蒲生氏郷を頼って落ち延びたとされます。

15万石を誇った津城の織田信包は、豊臣秀吉の命によって改易とにり、1594年、丹波・柏原城(36000石)に移動しました。
そのあと、文禄4年(1595年)7月、に、豊臣家臣の富田一白が5万石にて、安濃津城(津城)に入っています。

津城

安濃津城の戦い

富田一白が死去したあと、あとを継いだ富田信高は、1600年、関ヶ原の戦いで東軍の徳川家康に味方し、西軍の毛利秀元長束正家安国寺恵瓊、宍戸元続、吉川広家長宗我部盛親松浦久信ら3万の軍勢から津城を攻撃されました。

富田勢は、援軍の分部光嘉を含めても1600と劣勢で、津城は建物の大半を焼失し、奮戦の末、木食応其の仲介を受けて降伏しました。(安濃津城の戦い)

安濃津城

富田信高、分部光嘉は共に一身田の専修寺へ退くと、富田信高は剃髪して高野山に登りました。

しかし、東軍勝利となったため、富田信高は戦後に2万石の加増を受けて6万石となっています。

津城

富田信高は、疲弊した津城の城下町を再建しようとしましたが、住民がかなり被災しており、作業が滞ったと言います。
ただし、三重天守と二重小天守などが再建されたとも考えられているようです。

伊勢・津城

そして、慶長13年(1608年)、富田信高は伊予・宇和島城に転封となり、津城には伊予・今治城から伊勢津藩として22万石で移った藤堂高虎に引き継がれました。

藤堂高虎は、まず伊賀上野城の大改修に取り掛かっています。
しかし、交通の便が良い津城を本城と定め、北側の石塁を高く積み直すなど、輪郭式の城郭に大改修し、城下町を復興させました。
天守台は築かれたましたが、天守は再建されなかったとされています。
城下の東側を通っていた伊勢街道を城下に取り入れ、伊予から移らせた町人たちは、岩田川の南に住まわせて「伊予町」が作られました。


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一国一城令では、伊勢津藩の伊賀・上野城が存続を認められ、藤堂高虎は弟の藤堂高清を城代として送っています。

そして、藤堂氏は、江戸時代を通じて津城から離れることなく、11代続い幕末に至りました。  

津城

現在は「お城公園、お城西公園」として整備されていますが、今では本丸と西の丸部分だけとなっています。
公園の中心部は洋風庭園となっており、その周りも少し荒れているような印象を受けます。

津城

津城は、歴史的にも、また伊勢国においても、代表する城郭であり、津市は三重県の県庁所在地ですが、続日本100名城にも選ばれましたが、復元されているのは、三層の復興櫓となる丑寅櫓(うしとらやぐら)だけと、少しだけ寂しい感じを受けました。
しかも、一番の撮影ポイントとなる、三重櫓の手前道路は、電線が邪魔で、写真すらベストアングルでは撮影が困難です。
そのため、直下から撮影する感じになってしまいます。

伊勢・津城

まぁ、予算が市民のためにきちんと使われているのであれば、それはそれで良い訳でして、よそ者が残念に思う事くらい、なんでもないと存じますが・・。

津城のすぐ南側にある「高山神社」には、藩祖・藤堂高虎公が祀られています。
この高山神社の社務所(9時~16時)に、続日本100名城のスタンプもあるそうです。

高山神社

津城内の日本庭園入口にある門は、藩校有造館の正門・入徳門が、移築現存していると言う事になります。

入徳門

本丸部には、立派な藤堂高虎の騎馬像がありました。

藤堂高虎の騎馬像

行き方・交通アクセス

交通アクセスですが、JR西日本・近鉄の「津駅」からバスで約8分「三重会館」バス停下車の徒歩約3分となります。
または、近鉄名古屋線の津新町駅から徒歩10分です。


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駐車場は津市のお城東駐車場(7時~22時)が有料ですが利用可能。
ただし、道路が一方通行ですので、カーナビで指定して行くと良いかと存じます。

あと、津城の本丸復元模型が、津市役所の1階ロビーにあるそうです。

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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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