日向・野尻城(のじりじょう)は宮崎県小林市にある平山城で標高は160m、比高は40mです。
日向では山城と呼ばれても、そんなに山深いところは無き、比高が20mでも山城と分類されている城がありますが、この野尻城は、かなり要害と言う感じです。
山麓からは比高40mですが、城之下川の濁流からはかなり高く感じました。
くねくねと湾曲する川の断崖絶壁に挟まれた天然の要害城となっています。
調査の結果、東南部が「野尻本城」で、西北部があとから追加されたた「野尻新城」と判明しています。
最初の築城は不明ですが、1339年に、月山日和城(三俣院高城)の肝付兼重が畠山直顕に敗れて野尻城に入ったとあります。
戦国時代には、伊東氏48城のひとつにもなっていました。
城主は伊東家の重臣・福永丹波守です。
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この福永丹波守は福永祐友と言う武将です。
主君の伊東家ては、福永祐炳の時にその娘が伊東尹祐に嫁いで、伊東祐充、伊東祐清、伊東祐吉と子を設けると言う婚姻関係があるのが、福永氏です。
このように伊東家の筆頭クラスの重臣であった福永氏ですが、福永丹波守が、どの福永氏の子かはハッキリしません。
福永祐友
福永祐友(ふくなが-すけとも)は上記のとおり伊東家の重臣です。
1572年に、飯野城から出て、木崎原の戦いにて島津義弘に大敗した伊東祐安は、その後、勢力を弱めていきます。
そして、天正4年(1576年)には、長倉祐政ず守備する高原城も、島津義久によって落とされます。
更には、小林城主・須木城主である米良矩重が、伊東義祐への遺恨から島津勢に寝返るに至り、三ツ山城、野首城、岩牟礼城と次々に島津家が勢力を伸ばしました。
そのため、福永祐友(福永丹波守祐友)が守る野尻城は、最前線の城となります。
このピンチに、福永祐友は、度々、伊東義祐に事態の打開を訴えますが、その願いは、伊東義祐の側近らによって握り潰されました。
1577年に入ると更に情勢は悪化し、櫛間城の伊作久逸も、島津忠長によって攻め落とされます。
伊東義祐は飫肥城主・伊東祐兵に櫛間城奪還を命じますが、逆に島津忠長に反撃され、飫肥城に敗走しただけでなく、飫肥城も包囲されました。
また、日向北部からは土持氏が門川城への攻撃を開始したため、伊東家は北と南から侵攻を受けることになります。
そして、12月7日、野尻城主の福永祐友は、、島津勢の高原城主・上原尚近の説得を受けて、野尻城を明け渡しました。
伊東家にとっては重臣中の重臣である福永氏の離反による衝撃は大きく、内山城の野村刑部少輔文綱(野村松綱の子)、紙屋城の米良主税助も島津家に寝返りました。
こうして、12月9日、本拠の佐土原城を捨てた伊東義祐・伊東祐兵らは、豊後へと落ち延びて大友宗麟を頼り「伊東崩れ」となって、伊東家は日向から退去したのです。
その後、野尻城には市来美作守、敷根頼豊と言った島津家の家臣が城主を務めています。
福永祐友(福永丹波守祐友)は、その後、島津家に仕えて加治木城下に住んでいます。
子の福永宮内少輔は、1578年、岩屋城攻めに参加した際に負傷しています。
また、娘は島津勝久の長男である島津忠良入道休庵の正室となりました。
福永宮内少輔の子である福永筑後守は、加治木・島津忠朗の家臣に加わっており、47石を知行しました。
ご子孫は加治木郷士となっています。
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1599年、庄内の乱にて降伏した、都之城主・伊集院忠真は、その後、1602年、この野尻にて鷹狩の最中に、島津忠恒(島津家久)の命にて銃殺となりましたが、対外的には誤射となっています。
野尻には撃たれた伊集院忠真、平田新四郎と自殺した押川の墓があると言います。
野尻城井戸が残っているほか、遺構も比較的良好のようです。
今回は、時間が余ったため、急遽立ち寄りましたが、雪まじりの雨天であったため、探索はキケンと判断して自粛致しました。
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