宮崎県

清武城~稲津重政と妻・雪絵15歳の死


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清武城とは

清武城(きよたけじょう)は宮崎県宮崎市清武町にある山城です。
標高は70m、比高は40mとなります。

もとは清瀧城と呼ばれていましたが、南北朝時代の1379年に、門川伊東氏の伊東祐行(清武祐行)が改修を施して「清武城」と改名しました。

一説によると、日向に下向した伊東祐重の弟が清武祐行で、跡を継いだ清武祐恩(清武越後守祐恩)は妻に伊東祐重の娘を迎えたとされます。
清武祐恩のあとは、弟の清武祐憲が継ぎました。
なお、清武祐行の4男は平賀祐条となって平賀城を継いでいます。


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財部城の土持金綱を滅ぼした日向伊東氏の6代目・伊東祐堯(いとう-すけたか)が、1448年には、清武祐憲に頼んで木原・加納・今泉・船曳・田野を知行しています。
これらの地域が清武城の所領であったと考えられています。

1485年には、飫肥城攻めにて出陣した伊東祐重の曾孫・伊東祐堯が、途中滞陣していたこの清武城にて病没しています。

清武城

伊東祐堯の墓は、清武城近くの登能尾山の中に今でもあります。
この時の清武城主は伊東祐堯の2男・伊東祐邑であったともされます。

下記が伊東祐尭の墓です。
墓の入口近くにクルマを止められるスペースがありますが、場所は当方のオリジナル地図にてわかるようにしてあります。

伊東祐尭の墓

色々と墓石が並んでいますが、説明によると、伊東祐吉の墓、伊東祐国の墓、伊東祐堯の墓、伊東尹祐の墓、宮田藤五郎の墓、宮田安芸守の墓となります。

伊東祐尭の墓

下記の左側が伊東祐国の墓で、右側が伊東祐尭の供養塔となります。

伊東祐尭の供養塔

1485年6月、伊東祐堯の嫡男・伊東祐国は新納忠続が守る飫肥城を攻めますが、島津忠昌に討ち取られます。
家督は、伊東祐国の子・伊東尹祐(いとう-ただすけ)が継ぎましたが、18歳で若かったため伊東家は混乱をきたしました。

そのため、清武城主ともされる伊東祐邑は日知屋城に入って縣城の土持氏に備えたようです。
しかし、伊東祐邑が伊東家を掌握しようと謀叛を企んでいるとう噂が立ち、1486年、家臣が刺客となって伊東祐邑を暗殺します。
これで伊東祐邑の真意も不明になった上、家中では伊東祐邑の呪いと言うべきくらいの疫病が流行ったため、刺客として殺害に成功した伊東本家の家臣も、その後、切腹を言い渡され、自刃したとあります。
そして、1510年には「綾の乱」が起きています。

その後、伊東48城に数えられた清武城は、飫肥城攻めの拠点として、長倉伴九郎、上別府常陸守、上別府宮内少輔(かみべっぷ-くないしょうゆう)などが清武地頭を努めました。
1551年、目井城の戦いでは長池刑部少輔などと活躍しています。


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なお、上別府宮内少輔は、1572年、木崎原の戦いで、長倉伴九郎や弟・長倉伴十郎と共に討ち死にしています。
このとき、上別府宮内少輔は敗走の途中で、若年の長倉伴九郎(享年25)が討死した知らせを聞くと、戦場に引き返して討ち死にしたと伝わります。享年41。

1577年(天正5年)の伊東崩にて、伊東家が没落したあとは島津家の支配下となり、伊集院久宣が入城しました。
伊集院久宣(いじゅういん-ひさのぶ)は、島津家の重臣・伊集院忠朗の従兄弟です。

伊集院家にゆかりある松下久孝(松下刑部少輔越中守久孝)も1580年に城下に入ったともあります。

1582年、伊集院久宣は、吉利忠澄・新納忠元と共に肥後の日比良を攻め、1584年まで肥後に在陣しています。
その後、天正14年(1586年)には筑前に出陣して、野村文綱・白浜重政らと豊後・鶴崎城攻めに参加しましたが、退去の途中に妙林尼らの追撃にて討死しました。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州攻めのあと、伊東祐兵が曾井・清武に復帰して、伊東家復活に貢献していた河崎祐長が入っています。

稲津重政

1598年からは、稲津重政(稲津掃部助重政)が清武城主になりました。
1600年、関が原の戦いの際、飫肥城にいた伊東祐慶に黒田官兵衛の軍使・宮川伴左衛門が派遣されると、稲津重政(いなづ-しげまさ)ら伊東勢は徳川家康に味方する証として、西軍についた高橋元種の拠点で宮崎城を守っていた権藤種盛を攻撃します。
宮崎城を落とすと、迫ってきた島津勢をも稲津重政は撃退すると言う功績をあげました。

しかし、宮崎城落城の時点で、大垣城にいた高橋元種は徳川家康にすでに恭順していたことから、宮崎城は高橋家に返還させることになりました。
これを不満に感じた稲津重政は、新しい主君・伊東祐慶を信頼できなくなったようで、行状も荒れ始めたと言います。
飫肥藩主となった伊東祐慶は、詰問状を作り稲津重政を罷免しようし、また切腹を命じる結果となり、稲津重政は1602年10月12日に人質を取り、僅かな手勢で清武城に籠城しました。
こうして、稲津の乱となりますが、伊東勢の前に敗れて稲津重政は討ち死にしています。享年29。

稲津掃部助の妻・雪江(田北鎮周の娘)は、実母の母が危篤ということで、飫肥城に向かっていたところ、清武城の窮地を知ります。
逃れるように言われましたが清武城に戻ると、稲津重政と運命を共にしました。わずか15歳です。

稲津重政と妻の墓が、宮崎市清武町加納小学校南西の丘の上にありますので、登ってきました。

稲津掃部助の墓

苔に覆われた100段くらいの階段を登ったうえにありました。

稲津掃部助の墓

写真の墓碑には阿万三平、平賀六助、伊東祐高の弟・平賀祐継(平賀六助)など最後まで付き従った家臣の名前と、雪江姫の名が刻んであります。

その後、河崎祐長(河崎駿河守祐長)が再び城主となった模様ですが、1615年の一国一城令によって廃城となりました。
なお、清武には1637年(寛永14年)3月15日に、清武地頭が置かれており、河崎駿河守の次男・河崎祐信(河崎大學助祐信)が継いでいます。

清武城の周囲には、出城や有事の際に城として使える寺院がいくつもあり、都於郡城に似た構造で、かなり規模も大きな城塞になっていた模様です。

清武城

清武城の見学ですが、あちこちに本丸跡はこっちとの案内板があり、本丸近くまで舗装されている道があるものの、駐車場はないとの事前情報であったため、今回城内探索は遠慮させて頂きました。

清武城

ただし、伊東祐尭の墓の入口近くにある駐車スペースに止めれば、散策は可能かと存じます。
その場合の見学所要時間は、約1時間といったところです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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