三河・岡山城とは
三河・岡山城(おかやま-じょう)は 愛知県西尾市吉良町岡山砦山にある標高20m、比高15mほどの丘城で、別名は岡山砦・岡山古城。
最初の築城などは不明だが、南北朝時代の頃に三河・西条城の吉良氏4代・吉良満義の5男・吉良満康が岡山氏として分家し岡山満康となると、吉良氏系の岡山氏代々の居城になったようだ。
戦国時代の城主としてはは富永勝光(富永半五郎勝光)と伝わる。
なお、富永半三郎勝光と言う名も見られるが委細不明。
この富永氏は平安時代の武将・伴助兼後裔で、設楽郡富永荘の領主だったようで三河・野田館があったと言う。
分家のようだが冨永資良(冨永五郎左衛門)は、室町幕府将軍・足利義満に仕え、冨永行康、冨永資正と続いた。
この3代の富永資正が、応仁二年(1468年)に吉良義信に仕えてから吉良氏の重臣になったようだ。
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そして、富永正安、富永忠安と続いたが、富永忠安(冨永右京大夫忠安)は西尾の鵜ケ池村砦屋敷に住んだと言う。
また、三河・室城(牟呂城)も手に入れたようで、1536年、松平信定に追われた松平広忠を室城にて匿ったが落城したとある。
西尾私史によると富永忠安は安祥城主・松平長親の娘を妻にして、吉良氏没落後の西尾・鵜ケ池村砦屋敷に住んだと言う。
また、妙高山・妙満寺を建立したが富永忠安は永禄9年(1566年)に死去したとも。
その子は富永忠元で吉良義昭に仕え、三河・室城(牟呂城)の富永忠元(富永伴五郎忠元)に復帰すると、三河・岡山城も管理していたとある。
桶狭間の戦いのあと、三河統一を目指した徳川家康の攻撃を受けて、1561年、藤波畷の戦いで富永忠元は討死。
三河・東条城の吉良義昭は降伏したが、一時、三河・岡山城に入ったともされる。
1563年、三河一向一揆になると、吉良義昭は東条城に入って蜂起。
最初は一揆勢だった久留正勝(久留善四郎正勝)が松平勢に寝返ると、三河・岡山城に籠って一番槍りを遂げたともあるが、これもよくわからない。
江戸時代に入ると吉良荘を知行した吉良上野介義弥が、次男・吉良弥清を住まわせて、岡山八兵衛と称したともある。
以上、諸説ありよくわかっていない事をご理解願いたい。
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三河・岡山城の場所は、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
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