高鍋城(たかなべじょう)は、宮崎県児湯郡高鍋町にある城で、舞鶴城・財部城とも言い、現在の城跡は舞鶴公園として整備されています。
半島状に突き出た丘陵が財部城(高鍋城)となっています。
最初は斉衡年間(854年~856年)に柏木左衛門尉(かしわぎさえもんのじょう)が築城したとも伝わりますが、財部城(たからべじょう)と呼ばれていました。
北に小丸川、西に宮田川、東に日向灘を臨む丘陵上の平山城です。
平安時代末期には、もとは宇佐八幡宮(宇佐神宮)の神官で、日向国の荘園領主となった延岡・縣(あがた)の土持氏と同じ一族と考えられる、財部・土持氏が領したと考えられています。
宇佐宮荘園における地頭職となった財部・土持氏は、清水、都於郡、大塚、瓜生野、飫肥などにも庶子が割拠し、日向一円に広がっていた土持七頭のひとつで、日向に地盤を持たない伊東氏は婚姻関係を結ぶなどして行きます。
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特に都於郡城主・伊東祐立の正室は土持氏の娘で、のちに家督を継ぐ伊東祐堯の妻も土持氏の娘です。
そして、伊東祐堯の長女は、土持左衛門堯綱(たかつな)の妻になっています。
また、伊東祐堯の嫡男・伊東祐国は、財部城代主・土持弥次郎是綱の娘を妻に迎えています。
さて、伊東祐堯の時には、伊東家が室町幕府より日向平定の下知状を貰おうとしたため、これに反発した土持氏と争っています。
1456年、財部土持氏の土持影綱と県土持氏の土持宣綱は連合して、財部城から近い毛作原にて伊東祐堯と激突し、小浪川の戦いとなります。
激戦となったこの合戦で、土持勢は多数の兵を失い、有力武将の土持三河守金綱は討死、他にも黒岩備中守、黒岩肥後守、黒岩左衛門四郎、江藤丹後守、田中対馬守の父子、似田彦左衛門、野中新左衛門などが落命しました。
翌1457年、伊東勢は新納院土持の財部城を包囲すると総攻撃を仕掛け、土持左衛門尉影綱が討死。
高城主・土持美作守、黒岩左衛門五郎、清水治部太夫、長友周防守父子、高井左京、吾田衆の新名甲斐守、新名因幡守、富山若狭守、海田筑後守、甲斐和泉守、大貫但馬守、新名石見守、新名但馬守、新名弥五郎なども討ち死にしました。
そして、ついに財部・土持惟綱(土持是綱)は伊東家に降伏し、約600年続いた財部・土持氏は没落しています。
恐らくは、実質的な人質として、娘など女子を伊東祐国の妻にと差し出した可能性があります。
こうして、財部城には、伊東氏の庶流・落合民部少輔が宮崎城から入ったようで、伊東氏四十八城の一つとなり、土持一族としては財部を失ったあと、残すは臼杵郡を地盤としています。
下記は高鍋城(財部城)の本丸部分(山頂部)です。
登ってみるとひんなに広くはないので、櫓台と言う感じです。
戦国時代の財部城主は、落合兼朝(おちあい-かねとも)で、この武将も代々、落合民部少輔と言う名を世襲しています。
伊東家執事五人衆のひとりとしては、落合兼仲と言う武将も見受けられます。
1575年、木崎原の戦いで落合兼置や落合源左衛門尉が命を落としていますが、同様に没した伊東祐安と嫡男・伊東祐次の跡を誰が継ぐかの問題で、落合兼朝の嫡男・落合丹後守ら若衆36人が、伊東義祐の寵臣・伊東祐松(伊東帰雲斎)の専横にしびれを切らして反乱を起こします。
落合丹後守らの反乱は34人となりましたが、木崎原合戦の戦犯として非難を受けていた伊東帰雲斎の判断で、落合丹後守は成敗されます。
そのため、財部城主の落合兼朝は、伊東祐松(伊東帰雲斎)を恨むようになり、天正5年(1577年)に伊東義祐が、佐土原城から「豊後落ち」した伊東崩れの際に、反旗を翻しました。
伊東義祐が財部(高鍋町)を通過しようとしたため、落合兼朝は軍勢を出します。
そのため、伊東義祐は山伏・東光坊と栗木太郎五郎を使者として派遣しましたが、伊東祐松(伊東帰雲斎)の責任を追求し、東光坊を撲殺したため、栗木太郎五郎は命からがら戻りました。
こうして、海沿いを通行できないと察した伊東義祐らの一行は、米良山に迂回して、高千穂を経由して豊後へと落ちた訳です。
そして、落合兼朝は財部城を島津家に明け渡し、島津義弘の家老・川上忠智が城主として入りましたが、その後の日向落合氏の動向はよくわかりません。
この川上忠智の子・川上忠堅(かわかみ-ただかた)は、父と共に島津義久に仕えて、島津家久に従うと、1584年の沖田畷の戦いにて、大将の龍造寺隆信を討ち取ると言う大功を挙げています。
戦利品となった龍造寺隆信の脇差は、現在、佐賀県立美術館に寄贈されています。
ちなみに、川上忠堅の子である川上久林(かわかみ-ひさしげ)ら島津勢の武将である川上忠兄、川上久智、押川公近、久保之盛らは、1600年関が原の戦いにて、島津義弘の中央突破の際に、馬から降りて、踏み止まり、井伊直政らに怪我を負わせています。
これら5名は小返しの五本鑓(こがえしのごほんやり)として武勇を讃えられました。
ただし、1587年に豊臣秀吉の九州攻めがありましたので、その時に財部のあたりは筑前の秋月城主だった秋月種実に与えられて、36万石を有した秋月家の所領となっています。
秋月種実は最初、櫛間城(串間城)(宮崎県串間市)を本拠としますが、1600年の関が原の戦いのあと、財部藩3万石へと減封となり、財部城の改築を開始します。
そして、慶長9年(1604年)には日向高鍋藩の初代藩主・秋月種長が財部城を本拠として幕末に至りました。
財部城は1607年に大幅改修が行われ、野首の堀切を行ない、山頂近くには三階櫓などが建立されました。
約7mある高石垣なども見事でしたが、ここ以外に目立った石垣は麓部分だけとなります。
また、秋月種信が1669年から1678年にかけて、堀や大手門などの城門・本丸御殿などを造営します。
こその間の延宝元年(1673年)に「財部城」から「高鍋城」へと城名も変更されました。
下記は奥御殿があった場所で、広いのですが、この中腹部分に政庁があったことから、ここを本丸跡とする場合もありますが、まぁ、江戸時代に入ったあとの事でしょう。
下記のような立派な建物になっていたようです。
なお、秋月種政は、日本古来の馬として知られる宮崎の都井岬に牧場を開設しました。
高鍋藩の6代藩主・秋月種美の次男は米沢藩・上杉重定の養子となり、後に藩財政を立て直し「なせばなる」と言う有名な言葉を残した名君「上杉鷹山」(うえすぎ-ようざん)となっています。
明治維新となり、西郷隆盛の西南戦争の際には、高鍋は西郷軍に味方しています。
下記はそのとき、命を落とした志士の慰霊碑となります。
あと麓の駐車場付近の二の丸跡に、舞鶴城内寒山拾得像(かんざんじっとくぞう)が祀られています。
秋月氏の先祖は、漢の高祖であることから、中国における民間信仰の道教神である寒山拾得があると言うことです。
もともと、1549年に串間に設置されたものを秋月氏が江戸の藩邸があった蝦蟇池の畔に安置していました。
明治になって、秋月種樹が湘南の片瀬別邸に移したあと、大正時代にここに移ってきたようです。
高鍋城跡では、毎年10月10日前後の土曜・日曜に「高鍋城灯籠まつり」が開催されます。
1500基とも言われる高鍋城址周辺に設置された燈籠に火が灯され、多くの見物客で賑わいます。
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高鍋城(財部城)への交通アクセスですが、JR日豊本線の高鍋駅からバスで舞鶴公園へとなります。
クルマの場合には、舞鶴公園の無料駐車場が利用可能です。
高鍋城(財部城)の見学所要時間は、山頂部も含めると約30分~60分といったところです。
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・宮崎城~戦国大名の伊東氏も一時本拠とした山城
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