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フルスト原遺跡
フルスト原遺跡(フルストばるいせき)は、沖縄県石垣市大浜にある館跡(グスク)と考えられる。
標高20mほどの小高い丘の上にあるため、分類としては丘城になるか?
最初の築城は1400年頃?であり、高くなっている石垣もあるため、石垣氏など島の領主が拠点にしていた可能性がある。
遺跡と言う言葉を使っているのは、屋敷跡(城跡)と考えれるが、誰の館跡なのか?不明な場合に使われることがあるためだ。
もっとも、城跡も遺跡と言えるのだが、例えば下記のような事例もある。
相模の上浜田中世建築遺構群は、渋谷氏の舘跡と考えられるが、周辺にも渋谷氏とされる館跡がいくつもあるため、確定しておらず建築遺構群と呼ばれている館跡もある。
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ただ、フルスト原遺跡が城郭とも言えない可能性があるのは、争いごとがあまり考えらず人口も少ない「石垣島」であるため、簡単な防御だけでよかったとも推測できるだろう。
すなわち、城と言うよりは「屋敷跡」と考えるのだ打倒だが、発掘で生活に必要な道具は出ても、武器が出ない事から、前述のとおり、領主クラスの屋敷だったのか?が不透明といったところなのだろう。
しかし、石積みを繞らした郭状は、ある程度の防御性を備えていたとも伺い知れる訳だ。
となると、大浜フルストバル城と呼ぶのが適切か・・・。
沖縄本島のグスクは首里城も含めて8カ所ほど記事にもしているが、ともあれ、フルスト原遺跡は国指定史跡にも指定されているため、訪問しておく義務感にて石垣島を再訪した。
石垣島は若い頃に4回ほど訪問して以来の5回目となる。
昔の石垣島と異なり、新石垣島空港となり大型機も着陸できるようになったので、今では羽田からの朝10時には石垣に降り立つことが可能となった。(片道2000km、飛行時間3時間)
しかし、いまや石垣島も宮古島も高級リゾートのような様相でもある。
オヤケアカハチの乱
伝承としては、1500年に八重山諸島で起きたオヤケアカハチの乱が発生したという。
琉球王国の支援を受けた西表島・祖納の「慶来慶田城用緒」(けらいけだぐすくようちょう)、石垣市街地の長田大主、西塘、与那国島の女傑「サンアイイソバ」らと、宮古島の仲宗根豊見城らに、琉球王朝の軍勢が加わり石垣島を攻撃した。
琉球国王・尚真王(しょうしんおう)の軍勢としては、大里親方など軍船大小100艘、琉球兵3000とある。
対するオヤケアカハチは、与那国島の鬼虎と連合を組んで対抗したが敗れた。
この遠弥計赤蜂(おやけあかはち)は波照間島で生まれたとされるが、フルスト原遺跡は石垣島を本拠にした際の居城跡ともされるらしい。
ただし、現在の大浜公民館の辺り(下記写真)に屋敷があったともされるため、フルスト原遺跡はいわば「詰め城」として使ったのかも知れない。
この頃の八重山勢力は下記の通り。
石垣島には石垣の「長田大主」と、大浜の「オヤケアカハチ」。
長田大主((ナアタウフシュ))は宮古島・仲宗根豊見親の子ともある。
石垣島・仲間森(川平)は「仲間満慶山英極」(なかまみつけーまえいきょく)。
竹富島は「西塘」。
波照間島は「明宇底獅子嘉殿」(みうすくししかどぅん)。
与那国島は女性首領「サンアイイソバ」と、与力で剛勇として知られる「鬼虎」などがいる。
西表島祖納の「慶来慶田城用緒」(けらいけだぐすくようちょう)は、石垣島平久保の「平久保加那按司」を滅ぼした。
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しかし、琉球王朝の第二尚氏3代・尚真王が八重山諸島を手に入れようと圧力を掛けたので、八重山の豪族は恭順派と独立派で対立することになったようだ。
そして、徹底交戦を唱えた大浜のオヤケアカハチ(遠弥計赤蜂)は、石垣村の長田大主(ナータフーズ)と弟2人を敗走させ、長田大主は西表島へ逃れた。
また、那礼当、那礼重利、平家落人の子孫ともされる川平村仲間丘の首領・仲間満慶山(ミツケーマ)、波照間島の住人・明宇底獅子嘉殿(シシカトノ)らを滅ぼして、石垣島だけでなく、与那国島まで八重山諸島を支配下に収めたと考えられる。
こうして琉球に属さない大平山(タイビンサン)という連合国家を築いたようで、妻は石垣村の長田大主(なあた-うふしゅ)の妹・古市(古乙姥、くいつば)を迎えている。
そして、オヤケアカハチは琉球国への貢物を2~3年断った。
そんな中、与那国島では、家臣の鬼虎が反旗を翻して女傑サンアイイソバを倒し独立。
そのため、琉球王国は本腰で軍隊を派遣した。
オヤケアカハチが、琉球国側の宮古島を攻撃しようとしたので成敗されたとある。
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遠弥計赤蜂は、於茂登岳の麓の泥田に隠れていたところ発見されて殺害されたとされる。
ただし、小浜島に落ち延びたとする伝承もあり、小浜島にはオヤケアカハチの森があるので、一部の家族や子供は逃げたのかも知れない。
下記は大浜海岸。
なお、石垣島では遠弥計赤蜂(オヤケアカハチ)は、島民を守ろうとした英雄として描かれており、今でも人気がある。
そのため、児童向けの教育として、大浜小学校の向かいには、オヤケアカハチの碑(オヤケアカハチの銅像)もあるくらいだ。
推測するに、琉球から要求された税金が高かったのかも知れない。
戦後、石垣の豪族である長田大主が支配するところとなったようで、石垣の離島桟橋近くにある「美崎御嶽」にて、石垣の神女マイツバ(長田大主の姉) がノロやユタを統括したとある。
なかなか石垣島の歴史も奥が深い。
江戸時代の1609年からは、薩摩藩の島津氏が琉球王府を実質的に支配したため、琉球王朝は薩摩へ貢物を納めるために、八重山諸島の人頭税を強化した。
人頭税と言うのは、貧しい者や病気などで働けない者も含めて全員に税を一率に課すもので、八重山では15歳から50歳までの男女が対象となった。
帝国議会にて人頭税が廃止されたのが明治36年(1903年)のため、約300年間も続いたと言える。
ただし、今でも、国民年金保険料の納付が実質的に人頭税に近いか・・・。
石塁は全部で15基ほどあったようで、そのうち7基(1、2、3、4、5、10、15)が復元されている。
なお、石垣島大浜の英雄・オヤケアカハチがいた時代から100年ほど前に、その遺跡ができたと考えられているようだ。
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なんでも、昭和18年(1943年)に海軍飛行場(昔の石垣航空)が、アメリカ軍の爆撃を受け滑走路を修理する際に、遺跡にあった石を使ったらしい。
そのため、復元されている次第だが、石塁にはサンゴ由来の琉球石灰岩が使われている。
フルスト原遺跡の見学所要時間は約20分ほど。
オヤケ赤蜂之碑
オヤケ赤蜂之碑は大浜にある崎原公園の真ん中付近にあった。
これだけ立派に祀られている領主は、関東などの有名どころの武将でも、そんなにいないだろう。
交通アクセス
フルスト原遺跡への行き方・交通アクセスだが、クルマの場合には石垣港離島ターミナルから所要約15分で、史跡の中心部まで入れて適当に駐車も可能。
未舗装路だが地面は固めでレンタカーでもぜんぜんOK。
事前情報では対向車が来たらすれ違いは困難とあったが、1.4車線程度で、なんとか対向車をかわせそうな箇所も多かった。
本州の山城などへのアプローチ道路と比べたら、ぜんぜん広いので安心して走行できる。
なお、南からの道路は畑の中を抜けるため、迷いやすく道も荒れている為、北側の道路(タナドー線)から入って行くのを強くお勧めする。
バスの場合、東バス・白保線に乗車し、大浜バス停で下車して、徒歩約15分で到着。
バスは1日乗車券などが安い。
紫外線対策、暑い日には熱中症対策、虫除けがあると良い。
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その他、オヤケアカハチの銅像がある場所と、オヤケ赤蜂之碑がある場所など含めて、当方の沖縄当方オリジナル地図では、史跡や観光地の駐車場などをポイントしている。
スマホで表示すればカーナビとして使用することも可能。(バス乗車・歩行者・自動車のナビ可能)
地図の検索窓から施設名を入れて選択を。
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