三河・井田城は愛知県岡崎市井田町にある平城(館跡)だが、井田野の丘陵の先端にあると言う感じで現在は城山稲荷が鎮座する。
岡崎城から北に2kmの場所であり、松平家の菩提寺・大樹寺を結ぶ岡崎防衛の重要地点と言える。
最初の築城は不明だが、酒井左衛門尉家になる酒井氏の居城として知られる。
そもそも酒井氏は、鎌倉時代に大江広元の5男・海東忠成(大江忠成)が三河国幡豆郡酒井郷、または碧海郡酒井郷を領地としたのが発祥。
そして、酒井忠則の時に新田氏(世良田氏)一族を称した時宗の僧・徳阿弥(のち松平親氏)の娘を妻にして生まれた子が酒井広親と名乗った。
酒井広親は松平郷の松平氏に仕え、譜代家臣となったので、井田城は三河武士発祥の地とも主張している。
この酒井広親の長男とされる酒井氏忠(酒井親忠)の家系は代々「左衛門尉」(さえもんのじょう)を称した。
酒井広親の次男とされる酒井家忠の家系は代々「雅楽助」(のち雅楽頭)を名乗り、雅楽頭(うたのかみ)と呼ばれ、酒井家は「左衛門尉酒井家」と「雅楽頭酒井家」の2系統あることになる。
この三河・井田城のすぐ北側では5回も合戦(井田野の戦い)が発生しているため、井田城の戦いと呼んでも語弊はないだろう。
それらを考えると、この井田野の地は松平家にとっては重要な拠点であるため、譜代の家臣で信頼できる酒井氏に守られたものとも考えられる。
左衛門尉酒井家の初代・酒井氏忠から数えて5代目が、戦国時代に徳川家康の重臣・徳川四天王として活躍する酒井忠次となる。
1527年、酒井忠次は三河・井田城にて生まれた。
徳川家康(竹千代)から15歳年上の酒井忠次は、竹千代かせ駿府に人質に出された際に小姓として同行。
1535年、森山崩れで松平清康が死去すると、尾張の織田信秀は3000を率いて三河・岡崎城に攻め寄せた。
このとき井田城から酒井忠次も出陣し、松平信孝と松平康考の兄弟に従い撃退している。(井田野の戦い)
1560年、桶狭間の戦いのあと、徳川家康が三河・岡崎城に復帰。
酒井忠次は宿老になった。
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1564年、攻略した、三河・吉田城の城主として酒井忠次が入っているため、この頃から三河・井田城は使われなくなったと推測できる。
交通アクセス
三河・井田城への行き方・交通アクセスだが、愛知環状鉄道の北岡崎駅から徒歩約15分。
岡崎城から歩くと30分くらい。
クルマの場合、城址の西側に井田公園があり無料駐車場を利用できる。
公園に公衆トイレあり。
武蔵・井田城もあるので混同しないように注意が必要。
駐車場の場所は、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)
・酒井忠次をわかりやすく解説~徳川四天王【どうする家康】徳川十六神将の筆頭格
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