阿波・大西城(おおにしじょう)は、徳島県三好市池田町ウエノにある平山城で、別名は池田城とも言います。
阿波の最西端にある場所と言う事で、大西と呼ばれたそうです。
阿波・大西城の立地は、地図の場合、真上からみますので、まったくわからないのですが、西から東へと延びる細長い台地となっています。
台地の上には、高校野球の甲子園出場でも知られる県立池田高校や、中学校、幼稚園、そして小学校などが並びます。
地元では「大西の丘」と呼ばれており、すぐ北は吉野川で、現在の国道32号は、その大西城がある台地の麓を、巻くように通っています。
よって北側は崖です。
南側も地図ではわかりにくいですが、崖になっていて、大西城の台地からは、三次市の市街地を望めます。
そのため、大西城は平山城となります。
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最初の築城は、鎌倉時代の承久3年(1221年)とされ、承久の乱にて、活躍した甲斐源氏の一族・小笠原長清が阿波守護に任ぜられます。
阿波には下向しなかったようですが、1223年に、小笠原長経の子である小笠原長経(おがさわら-ながつね)が、阿波守護を譲られて、一時、阿波にも入ったようです。
この小笠原長経が大西城を築城し、後鳥羽上皇側についていた前阿波守護の佐々木経高が籠る鳥坂城(茶臼山城)を攻めて、滅ぼしたとされます。
小笠原長経の次男・小笠原長房が阿波守護となると、三好郡の平盛隆を討ち、阿波・岩倉城を拠点としました。
この阿波小笠原氏から、のち戦国時代に君臨した三好氏などを輩出することになります。
南北朝時代の小笠原氏は、白地城の大西氏と共に南朝方として戦います。
しかし、次第に劣勢となり小笠原義長が北朝方と和睦すると芝生城へ移り、阿波三好郡を本拠にしていたことから三好氏と名を変えます。
そして、室町幕府側の阿波・細川家が代々、阿波守護を務めたので、三好氏は阿波細川家の被官として勢力を伸ばし始め、やがて勝瑞城にて阿波の実権を握るようになりました。
そのころには、阿波・白地城主の大西氏の支配下と考えられ、支城的役割は持っていたようです。
もちろん、大西氏も三次氏の一族とされます。
豊臣秀吉の四国攻めにて、長曽我部元親を阿波から追いやると、蜂須賀家政が阿波に入ります。
この時、大西城には家臣の牛田一長(牛田又右エ門)が入って、阿波九城のひとつとして、大西城は改修されました。
蜂須賀家時代の石垣だと存じますが、池田幼稚園の東側の地下部分に、本丸石垣の一部が保存されていて、道路沿いから見学できるようになっています。
石垣の石の積み方は、ちょっと違った特徴もあります。
1598年からは、阿波・海部城から中村重勝(中村右近太夫重勝、中村一氏の末弟)が大西城に赴任しました。
この中村重勝は、1614年の大坂冬の陣にて討死し、子の中村可近(なかむら-かきん)が、5500石+2000石加増で、大西城を任されています。
その後、寛永十五年(1638年)の一国一城令で廃城とはなりますが、大西陣屋は置かれていたようで、1646年には中村近照(なかむら-ちかてる)が継いでいます。
なお、この中村氏は、歌舞伎俳優である中村勘三郎(第18代)さんのご先祖ともされています。
もちろん、諸説ありますが、実際に中村勘三郎さんら中村屋は先祖の墓参りとして、三次市池田町の桂林寺を訪問されております。
なお、大西城趾の石碑も、池田幼稚園の東脇にありました。
現在、目立った遺構は少ないですが、城跡の雰囲気は残っている大西城跡でした。
麓は城下町だったのでしょう。
三次市池田町は古い町並みも残っており、徳島ではいくつかある「うだつのある街並み」も見受けられました。
さて、阿波・大西城への行き方・アクセスですが、JR土讃本線の阿波池田駅からですと、坂を上って徒歩約10分となります。
駐車場はありませんが、池田幼稚園前の道路沿いの大きな歩道が駐車スペースになっているようで、皆様、止めておられました。
場所は、当方のオリジナル地図にて分かるようにしてあります。
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