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武蔵・丸子城の歴史解説~古くは丸子部が支配した地

武蔵・丸子城

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武蔵・丸子城とは

武蔵・丸子城(まるこ-じょう)は、神奈川県川崎市中原区上丸子山王町にある平城(館跡)です。
現在ある日枝神社(丸子山王)から、上丸子小学校の付近に、丸子城があったとされ、すぐ隣の多摩川にて水運も活用されていた模様です。

武蔵・丸子城

奈良時代の頃には、丸子部(まりこべ)と言う者が定住した可能性があるようで、地名にもなりました。
この「部」(ベ)と言うのは、 もともと、大和王権(倭王権)が、集団の組織を区分けするのも用いていました。
今で申しますと、会社に、部署があったり、大学に学部があるのと同じと申し上げますと、分かりやすいでしょうか?
そして、無姓のままでは戸籍に登録できないなどの理由から、皇族や有力豪族は、部姓を与えられ、部称は個人の姓になります。


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その有力者の一部は、各地の民衆統治などのため、中央から各地に赴任することがあります。
例えば、埼玉県の春日部(かすかべ)も、春日部さんが国造として送られた可能性があると言う事です。
ぜんぶがそうですとは申し上げられませんが、丸子部さんが、赴任したため、そのまま丸子部と言う地名になった可能性がある次第です。

武蔵・丸子城

今では、~氏と、氏(うじ)なのですが、古い時代は、~部と、部がつけられていました。
よって、丸子は、かなり古くから、栄えていたことがわかります。


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大化の改新によって部姓は、律令制的な氏姓へと、転換されて行き、一般民衆にまで拡大されました。
すなわち「苗字」(姓名)は、戸籍を作るうえで、必要なため、用いられることになったと言う事ですね。
だいぶ、話が脱線してしまい、申しわけありません。
いずれにせよ「部」がついていた地は、古くから稲作で豊かな地であったと言う事は確かです。

武蔵・丸子城

武蔵・丸子城の最初の築城ゃ城主などは一切伝わっておりませんが、吾妻鏡によると、鎌倉時代の武蔵国丸子庄は、葛西清重(葛西三郎清重)の領地でした。
南北朝時代の丸子荘は、三千院から護良親王へ譲渡されたとあります。

1478年、長尾景春の乱の際に、太田道灌が武蔵平塚城、石神井城などを攻略し、豊島泰経が小机城へ逃れる際、一時的に陣を張ったともされることから、別名は、丸子陣場とも言います。
鎌倉大草紙では、太田道灌が武蔵・丸子城に籠ったと明記されていますが、いずれにせよ、陣を敷いた程度と思われます。


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戦国時代小田原城の北条氏支配下となり、小田原衆所領役帳によると「千葉殿 20貫文 小机上丸子」とありますので、千葉氏が丸子を領していたようです。
徳川家康が江戸城に入り、中原街道が整備されると、多摩川の丸子の渡しは、繁盛したようです。
江戸時代には、旗本・斎藤氏領と日枝神社領になっていましたが、のち、上丸子は天領となりました。

交通アクセス

武蔵・丸子城(日枝神社)への行き方ですが、東急・新丸子駅から徒歩で約10分と近いです。
クルマの場合、駐車場はありませんが、信号から脇道に入ったところに、コインパーキングがありました。
すぐ近くに有料駐車場があったことから、城紹介では、駐車場ありとさせて頂きます。


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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