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搦目城(陸奥・白川城)とは
搦目城(からめじょう)は、福島県白河市藤沢山にある標高403mの山城で、国の史跡に指定されています。
陸奥・白川城、結城白川城とも言い、比高は60mほどになります。
最初の築城としては、結城朝光とされ、鎌倉時代の1189年に、源頼朝から白河荘など奥州白河三郡を与えられ、白川城を築いたとされます。
ただし、白川に結城氏が移住したのは、1289年頃と考えられ、孫の結城祐広の代のことです。
結城朝広の子・結城祐広(ゆうき-すけひろ)は、搦目城を築城(改修)して、居城にし、初代の白河結城氏となりました。
搦目城(陸奥・白川城)は、標高約400mほどの丘陵地にある山城ですが、普段住んだ屋敷は、当然、麓にあったと考えられます。
なお、現地を訪れて分かったのですが、三方を山に囲まれた地形であることから、その真ん中の平坦部に屋敷を構えていたのではと推測できました。
ただし、平坦部の規模的には、小田原の花岳城と同じような広さに感じましたので、そんなに広くはないようです。
しかし、山の部分は、小田原城のように、とつてもなく広く、全部見学すると、4~5時間は要する模様です。
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結城祐広の子・結城宗広と続き、その結城宗広の嫡男・結城親朝は、1340年、別途、約3km離れた、小峰ヶ岡に城を構えたのが、白河小峰城になります。
ただし、結城親朝は、家督を長男・結城顕朝に譲り、白河・結城氏の本流は、引き続き搦目城を本拠にしており、白河小峰城の結城氏は分流・別家の小峰氏へと発展していきました。
結城親朝が、小峰氏の祖であり、次男・小峰朝常が、小峯氏を継いだと言う事になります。
しかし、戦国時代に入ると、1509年からの古河公方の内乱・永正の乱となり、分家の小峰氏と宗家の白河結城氏もどっちに味方するかで対立しました。
そして、1510年、搦目城(陸奥・白川城)の嫡流・結城政朝が、小峰氏8代当主・小峰朝脩を自害させます。
そのため、命を落とした小峰朝脩の父・小峰直常が、岩城常隆と連合して、結城政朝を攻め、那須資永の上那須氏に追放しています。
<注釈> 刺客を使って殺害したともある。
ただし、小峰氏は、そのまま断絶したようですが、追放された結城政朝と、妻・小峰直親の娘との間に生まれたと考えられる、子の結城顕頼が、白河結城氏8代になりました。
実際には、小峰直常の手動野本、小峰氏が、白河結城氏を併合したように感じます。
結城顕頼(ゆうき あきより)は、三春城の田村直顕の娘を正室としました。
その後、嫡男・結城義綱が9代当主になりますが、この結城顕頼は、小峰朝脩の子・小峰七郎(小峰義綱)で、結城白河氏の家督を継いだともされ、詳しくは不明です。
他の兄弟は、陸奥・伊賀館に入った小峰義親、小峰義名、柏木義雄など、小峰氏を継いだりした模様です。
ただ、その頃には、搦目城(陸奥・白川城)が、使われていたのかは、定かではなく、白河の本拠地は、白河小峰城になっていたと考えられます。
一説によると、1575年、小峰義親が宗家の結城義顕を追放した、天正の変にて、本拠が白河小峰城に移ったともされますが、もっと前だったような気が致します。
現在の搦目城(陸奥・白川城)跡は、郭跡や空堀、土塁が残っており、散策コースとして整備されているようです。
今回は、朝7時前に到着したため、地元の皆様のご迷惑にならないよう、遠景撮影に留めました。
交通アクセス
JR白河駅の観光案内所にて、無料貸し出しのレンタサイクルを利用すると、約20分くらいとなります。
南西から主郭まで入れる未舗装路があるようですが、狭いため、対向車が来るとつらそうです。
駐車場の場所などは、当方のオリジナル東北地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
このあとは、白河小峰城へ向かいました。
・白河小峰城の解説【日本100名城】失敗したので失敗しない訪問方法など
・関ノ森城(関の森城)のちょこっと解説~白河の関にある城跡
・白河の関とは?~ちょっこっと解説「東北への入口にある関所跡
・三春城の解説【続日本100名城】田村隆顕・田村清顕
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