目次 Contents
三河・松平城とは
司馬遼太郎の小説『覇王の城』の冒頭に「奥三河の山のなかの坂をのぼって、松平郷という、これ以上は山径(やまみち)もないという行きどまりの小天地…」とある松平郷に築かれ、後に徳川氏発祥地の城とも呼ばれるようになった三河・松平城(まつだいら-じょう)は現在の愛知県豊田市にある山城で、別名を郷敷城とも言います。
室町時代初期の応永年間、徳翁斎信武(とくおうさい-のぶたけ)という人物が三河に流れ着ます。
松平郷を支配していた松平太郎左衛門信重(まつだいら-たろうざえもん-のぶしげ)は、連歌の会を催そうと思いましたが、筆役(皆が詠んだ歌を書き留めていく役目)を務める人がいません。
松平信重は流れ者の徳翁斎に依頼した所、筆役を見事に務めたため、屋敷で歓待する事にしました。
スポンサーリンク
屋敷で話をしているうちに、徳翁斎の人物を見込んだ松平信重は「自分には娘が2人いて、姉の海女は三河国の酒井郷(愛知県西尾市の一部)に嫁いでいるが、妹の水女は未だ独身なので婿になってくれれば家屋敷を譲っても良い」と申し出ます。
これを聞いた徳翁斎は「自分の弟の祐金斎(ゆうきんさい)が八橋(愛知県知立市の一部)に住んでいるが、この弟も一緒に面倒を見てくれるなら婿入りする」と言う条件を出し、松平信重が承諾したため松平家に婿入りする事になりました。
上記の話は松平郷に伝来したとされる『松平由緒書』を元にした物ですが、江戸幕府が編纂した『三河物語』などでは徳翁斎は徳阿弥(とくあみ)と書かれており、時宗の僧侶と言う事になっていますが真実は不明ですが、いずれにせよ松平重信の婿として松平郷に居を定めた事は確かなようです。
松平家の婿となった徳翁斎は還俗して名を松平親氏(まつだいら-うじちか)と名を改め山中にある松平館を中心として領地の整備をすすめ、近隣の薮田氏らと争いながら郡界川沿い平地部への支配を強めていきます。
支配地域が広まってきた松平親氏は山中の館から、交通の便の良い郡界川と街道を見下ろす場所に松平城を築き本拠としました。
交通アクセスと登城
推奨ルート
三河・松平城・松平東照宮(旧松平館)・高月院(所要時間:約2時間~)
公共交通機関で訪問する場合は、名古屋鉄道三河線の豊田市駅東口から出ている『とよたおいでんバス』の下山・豊田線に乗車で松平郷まで行く事は可能(R3年現在)ですが、本数が少ないため自家用車での訪問をお勧めします。
自家用車で訪問する場合、豊田松平ICを降りて国道301号線を東へ向かうとそのまま松平郷に入りますが、手前の林添部落にある神明社(豊田市林添町井ノ向50)一帯は薮田氏の居城であった林添城(はやしぞれ-じょう)跡と言われていますので、時間のある方は訪問してみるのも良いでしょう。
ただし、神明社境内に入る階段はかなの急登になりますので注意して上り下りしてください。
林添館
●松平城:駐車場より城址まで徒歩3分、見学時間30分~1時間
林添部落を過ぎ5分程度で松平郷に入ります。左手に松平城へ訪問する方用の駐車場がありますので車を停めます。
駐車場の東側山麓一帯が松平城になりますが、国道側からの登城は民家の庭先を通る事になりますので、西側にあるトイレ脇の小道を入って行き松平城跡の看板が立てられている登城口から城域に入る事になります。
登城口
城跡は主郭と2〜4の曲輪、櫓台のあるシンプルな城で、主郭に巨石がある以外は土塁もなく、古い山城の様式を見る事ができますが、2・3曲輪の南(街道側)を見ると竪堀や横堀を巡らせており、後世に一族の大給松平家と争った時などに改修されたものと考えられます。
登城口を入ってすぐに城址碑と看板、縄張り図が立てられていますので、訪問時は確認しながら進む事になります。
縄張り図
登城口を左に進むと2曲輪に繋がり、その奥にある主郭の高台には城址碑が立てられています。
登城口の右手は4曲輪になっており、先端には櫓台、南側に進むと主郭から2・3曲輪の下を囲む形で横曲輪が築かれ、主郭と2曲輪の直下には井戸跡も残されています。
櫓台
その後の歴史と現在、関連施設
三河・松平城の廃城時期は不明ですが、平地部に進出した松平支族が発展していった事に比べ、山間部に領地を持つ松平郷松平氏は一族の大給松平家に攻め込まれるなど忍従の時代を続けますが、徳川家康が江戸幕府を開くと宗家としての名誉を保ち、大名格として江戸時代を過ごして行く事になりました。
●松平東照宮から高月院:松平東照宮、高月院とも駐車場有、見学時間1時間30分~2時間
三河・松平城の駐車場脇の道路を山側に5分程登って行くと松平東照宮に着きます。
スポンサーリンク
松平東照宮は松平信重の屋敷跡に建てられたと言われており、道路沿いにある堀には水が張られている他、駐車場は馬場跡と言われています。
馬場跡の看板
境内には資料館(入場無料)が併設されており、松平家の資料を見る事ができ、徳川家康が産まれた時に産湯として使った水を汲んだ井戸も残されています。
産湯の井戸
高月院に至る250m の遊歩道沿いには室町塀や冠木門が建てられており、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの観光客が集まる名所となっています。
桜
松平親氏の像も立つ松平郷園地を奥へと進んでいくと、松平氏の菩提寺である高月院が見えてきます。
松平親氏像
司馬遼太郎が最初に来た時は車で登る事もできない山径で、国道から30分以上かけて歩くしかなかったそうですが、その後は整備も進み、現在では車での訪問も可能となりました。
高月院の住職様に話を聞いた所、松平郷が豊田市に編入され道路などが整備されたのは良い点だが、司馬遼太郎が再訪した際は「鄙びた里の良さが失われたのはとても残念」と話していたそうです。
スポンサーリンク
高月院の歴史は古く創建は1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)と言いますから、日本は南北朝時代で足利幕府が創建された翌年になります。
創建当時は寂静寺と呼ばれていましたが、1377年(南朝:天授3年、北朝:永和3年)に松平親氏が本尊の阿弥陀仏や堂・塔を寄進して高月院と名を改め、その後は徳川家康によって寺領100石が与えられた他、山門や本堂は1641年(寛永18年)に徳川家光によって建てられた物が現存しており、境内には家康手植えの松などがあります。
家康手植えの松
スポンサーリンク
三河・松平城
豊田市松平町三斗蒔15
松平東照宮(松平館)
豊田市松平町赤原13-9
高月院
豊田市松平町寒ケ入44
(寄稿)だい
・深溝城 ~三世代が家康に殉じた深溝松平家の居城~
・三河・藤井城 ~藤の花のような清水~
・形原城 ~悲劇も戦国の習い~
・岡崎城とは 天下の将軍「徳川家康」ここに生まれる
・日本全国の城跡オリジナル地図
共通カウント
この記事へのコメントはありません。