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駿河・大津城(駿河・野田城)の解説~佐竹兵庫助と藁科氏

駿河・大津城(駿河・野田城)

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駿河・大津城(駿河・野田城)

駿河・野田城(のだ-じょう)は、別名を、駿河・大津城(おおつ-じょう)と言う山城で、静岡県島田市野田にあります。
標高は約150m、比高95mほどのようです。

駿河・野田城

野田城と言いますと、武田家と徳川家が争った、お隣の遠江・野田城が有名なため、この島田市の野田城とは、隣の県のため、非常に混同しやすいです。
大津城も、近江にあるため、判別がわかりにくいのですが、ハッキリと場所も違うため、ここでは駿河・大津城として、ご紹介してみたいと存じます。
ただし、最初に申し上げておきますが、駿河・大津城が、この駿河・野田城の場所にあったと言うのは、推定と言う事になりますので、念のため、付け加えさせて頂きます。


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南北朝時代の観応2年(1351年)、室町幕府を開いた足利尊氏が、弟・足利直義と対立します。
その頃、足利直義に味方した、元・駿河守護代の石塔義房(いしどう-よしふさ)の家人である佐竹兵庫助、中山三郎左衛門尉らが駿府を占拠します。
足利尊氏は、駿河守護に今川範国を任じていましたが、敗れたと言う事になります。
しかし、今川範国と駿河・伊達氏の伊達景宗の軍勢が反撃にでて、観応3年(1352年)9月8日、佐竹兵庫助、中山三郎左衛門尉らが籠った、駿河・安部城を、陥落させました。
中賀野掃部助・入江駿河守らは久能寺城へと逃れ、佐竹兵庫助と藁科氏(わらしな-し)は、大津郷(島田市)に移って、駿河・大津城を築城したとされます。

駿河・大津城

ただし、駿河・今川氏の初代当主である今川範氏と伊達景宗(伊達藤三景宗)は、駿河・大津城を16日以上かけて攻め続け、ついに落城させたとあります。

こうして、今川範国が家督を子の今川範氏に譲ると、今川氏は、遠江・府中(引間荘)から葉梨荘へ移り、駿河の拠点ととして今川氏館と、詰城として駿河・花倉城を築きました。
駿河・伊達氏は、山名庄諸井郷を本領としています。

駿河・大津城の場所に関しては「駿河伊達文書」に記載があり、ずっと今川範氏の菩提寺がある慶寿院の付近が、大津城跡と考えられていました。
しかし、最近の研究では、江戸時代末期の「駿河志料」にある「野田の城山」が、駿河・大津城だとするのが、妥当と言えるようです。


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その後、戦国時代には、武田家の家臣・初鹿野氏(はじかのし)の一族と考えられる、初鹿傳右衛門が城主だったようで、武田流に改良も加えられた模様です。

交通アクセス

駿河・大津城(駿河・野田城)への行き方ですが、JR東海道線の島田駅より徒歩約40分で麓です。
今回は、予定外の訪問だったため、遠景撮影に留めました。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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