撫養城(むやじょう)は、徳島県鳴門市撫養町林崎にある平山城で、阿波・岡崎城、林崎城とも言います。
小鳴門海峡を見下ろす、標高62mの妙見山(古城山)にあり、見晴らしも良いところです。
古くは鎌倉時代に阿波国守護となった小笠原氏の居城と伝わりますが、時代などはよくわかっていません。
その後、三好家に臣従した寒川氏の家臣と考えられる四宮氏の一族が城主になったともあります。
1523年 管領・細川高国に追われた、室町幕府10代将軍・足利義植が、阿波・撫養(むや)にて没しています。
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また、三好三人衆に擁立され約6ヶ月間、第14代将軍となった、阿波公方出身の足利義栄も、1568年9月に織田信長が足利義昭を奉じて上洛の動きを見せると、京に入ることなく逃れてまもなく病死しました。
没地は諸説ありますが、ここ撫養であると言う説もあります。
天正10年(1582年)、本能寺の変のあと四国を統一した長宗我部元親は、撫養城に真下飛騨守を配置しました。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐により蜂須賀家政が阿波の一宮城に入ると、徳島城の支城を9城「阿波九城」のひとつとして、撫養城も整備されます、
そして、益田正忠(益田内膳正忠)が、兵300にて撫養城主となりました。
一国一城令により、寛永15年(1638年)に廃城となり、古城山と長く呼ばれました。
矢倉跡には現在、トリーデ鳴門という模擬天守が建っていますが、実際にはこのような天守は無かった模様です。
本丸跡とされる場所にある妙見神社は、江戸時代後期の天保元年(1830年)に、近隣の近藤利兵衛が古城山を買取、旧城主・四宮加賀守の子孫と一緒に神社を再建したとあります。
妙見神社本殿の裏手には、撫養城の石垣が残ってます。
私が訪問した際には、もうひと方も、同じように石垣を撮影なさっておられましたが、城マニアの方でしょうか?
このお城周辺で見かけたのは、そのお一方だけでした。
詳しく調べてみましたら、この四宮加賀守は、三好長治に3500石で仕えていた家臣であったことがわかりました。
阿南市津乃峰町長浜ある四宮神社の由緒書きに撫養城主は四宮加賀守であったと言う記述が見つかりました。
四宮加賀守は、1577年に長曽我部勢が阿波に侵攻した際、撫養城から水軍を指揮して、別宮と言うところで敵勢17~18名を討ちますが、額の右眉の上を負傷しました。
そして、弟の四宮左近と共に、林﨑に帰ると、一族で播磨の龍野に逃れて、興一右ヱ門と改名しました。
そのあと、播磨・龍野城主だった蜂須賀正勝が、阿波に移封となったため、一族で撫養に戻ると、そのあと阿南にある津乃峰山の中腹の陣の丸にて、7日間断食をしたとあります。
なぜ、断食したのかは不明です。
7日間籠城したとも受け取れますが、理解に苦しみます。
そのあと、蜂須賀家の官僚的家老・長谷川貞恒(長谷川越前貞恒)の許可を得て、1636年に四宮加賀守は、津乃峰町に塩田を開き、その地を長浜と定めました。
家老の長谷川氏の「長」をとったと言います。
そして四宮加賀守は塩竃神社を建立したと言うことです。
阿南市の大潟城には、四宮氏の本家である四宮光武が、一時、城主になっていたこともあるようですので、当然、四宮加賀守は一族である可能性も高いと存じます。
鳴門の皆様は、鳴門海峡の「渦潮」が観光の目玉となっているからか撫養城にはあまり興味が無いようです。
しかし、四国への玄関口として重要な役割を持った城跡ですし、せめて四宮氏と撫養城の関係は、鳴門市さんにてもう少しお調になったほうが良いのではと感じました。
実にもったいないです。
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さて、撫養城へのアクセス・行き方ですが、JR鳴門線の鳴門駅から東方約1kmに位置し、駅から歩くと麓まで約15分となります。
山の東側から城跡手前までクルマで登ることができ、妙見山公園駐車場の無料駐車場を利用可能です。
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