大多和城とは
大多和城(おおたわ-じょう)は、神奈川県横須賀市太田和にある平山城で、標高20mほどの矢城山(やじろやま)にあります。
大田和城・太田和城と書く場合もあり、別名は、矢城山城になります。
最初の築城としては、平安時代末期~鎌倉時代初期に、衣笠城主・三浦義明の3男・大多和義久(大多和三郎義久)が、領地を分けてもらい、屋敷を構えました。
大多和義久(おおたわ-よしひさ)に関して、吾妻鏡では、大多和義久が鐙摺城の城主も務めており、相模湾までの一帯を知行していたようです。
と言う事で、大多和義久にまつわる話としては下記のとおりです。
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源頼朝が鎌倉を制圧すると、軍事ではなく、朝廷や政治に明るい人材を、京から何人も呼び寄せています。
そのうちのひとり、伏見広綱も1182年に鎌倉に参じ、飯島(逗子)に屋敷を与えられ、源頼朝の右筆となりました。
そして、伏見広綱は、源頼朝の愛妾・亀の前を、屋敷にて預かっていたのですが、源頼家を出産したばかりの、北条政子が、父・北条時政の継室である牧の方の父・牧宗親に命じて、伏見広綱の邸宅を破壊させました。
この時、伏見広綱は、亀の前を連れて、大多和義久の屋敷(鐙摺城)へと逃れています。
1247年、宝治合戦にて三浦泰村の本家が滅亡しますが、大多和義成は、執権・北条時頼に味方したようで、存続した模様です。
大多和義久から5代目の子孫・大多和義勝(大多和六左衛門尉義行)が、新田義貞が鎌倉へ攻め上る際に出てきます。
1333年、多摩川での分倍河原の戦いにて、新田勢が劣勢になった際に、大多和義勝が駆けつけて、勝利に導いたようです。
現在の大多和城は、山頂付近に、新しい福祉施設があり、城跡は破壊されていますが、その福祉施設の入口に「伝・太田和城址」の新しい石碑もあります。(駐車困難のため、石碑は撮影は致しませんでしたが・・。)
私有地に入る際には、許可を取りましょう。
大多和城の西側の道路わきには、標柱があります。
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交通アクセス
大多和城への交通アクセス・行き方ですが、JR横須賀線の逗子駅から、バスに乗車して、太田和バス停下車の徒歩15分です。
京急・久里浜線の三崎口駅から京急バスに乗っても、同じく太田和バス停下車で来れます。
道は狭めで駐車場はありません。
・伏見広綱の解説【鎌倉殿の13人】源頼朝の側近である右筆
・亀の前【源頼朝の妾】おもしろ浮気解説
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・5分でわかりやすい【源頼朝】の解説「鎌倉幕府・征夷大将軍・鎌倉殿」旧相模川橋脚も (鎌倉殿の13人)
・北条政子とは【尼将軍と呼ばれた御台所】
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・衣笠城の解説【衣笠城の戦い】浦島太郎と酒を飲み交わした?三浦義明
・三浦義澄 三浦義村 三浦半島にある三浦義村の墓
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