阿波・一宮城とは
阿波・一宮城(いちのみや-じょう)は、徳島県徳島市一宮町にある山城で、続日本100名城に選ばれています。
標高は本丸部分が標高144.3m、麓からの比高は約120mと、徳島県でもで最大級規模の山城です。
最初の築城は南北朝時代のようで、阿波国守護・小笠原長房の4男・小笠原長宗(岩倉城主)が、1338年に一宮宗成を滅ぼして、城郭を築いたと考えられています。
一宮城内に一宮神社の分霊を奉祀し、小笠原長宗は一宮氏を称しました。
小笠原長宗は南朝方として活躍しましたが、金ヶ崎城で尊良親王らを討った細川頼春は、南朝の切り崩しに掛かります。
1340年、大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏が降伏しました。
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1350年に、小笠原長宗が病死すると、子の一宮成宗が一宮城主となりますが、細川頼之は夷山城を攻めて、野田山城も焼き討ちしました。
そして、一宮城の麓周辺を焼き討ちしましたが、一宮城は落ちなかったようです。
そして、1362年、細川頼之に敗れた一宮成宗は、子の一宮成行に家督を譲って和睦し、一宮成宗は重清城にて隠居しました。
その後、一宮成行は北朝に味方し、細川家の被官となっています。
細川氏に代わって三好氏が実権を握ると、一宮氏は三好家に従っています。
小笠原成助(一宮成祐)は、三好長慶の妹を妻に迎え、三好義賢の重臣となっていました。
しかし、三好長治の代になると、天正5年(1577年)、細川真之と三好長治が争うことになります。
この時、一宮成助は伊沢城主・伊沢頼俊とともに細川真之に応じて挙兵し、今切城を攻めて三好長治を自刃させました。
讃岐・虎丸城にいた、矢崎駿河守はこの知らせを受けて伊沢頼俊を討ちとっています。
その後、小笠原成助(一宮成祐)は、長宗我部元親に通じて、勝瑞城を巡り十河存保と争いました。
天正10年(1582年)、中富川の戦いで長宗我部氏が十河氏を敗って阿波を平定すると、小笠原成助(一宮成祐)は三好康長に通じたとの理由で、夷山城にて謀殺されてしまいます。
そして、長曾我部元親は、一宮城の北城に谷忠澄、新たに増築した南城に江村親俊を配置して、一宮城を10000にて守備させました。
しかし、天正13年(1585年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)による四国攻めにて、豊臣秀長が率いた40000の軍勢が一宮城を囲みましたが、約2ヶ月耐えたのちに降伏しています。
長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏すると、蜂須賀家政に阿波が与えられ、一宮城を最初の本拠地としています。
この時、石垣などが改修された模様で、本丸石垣は見事なようです。す。
しかし、すぐに徳島城の築城を開始しており、徳島城を新たな本拠とすると、一宮城には家臣の益田持正が入りました。
阿波九城の一つとして重要な役割を担った一宮城ですが、一国一城令によって1638年(寛永15年)に廃城となっています。
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本丸と水の手丸との間にある谷間に、湧水があり、水が貯水池と呼ばれる池に溜められていたようです。
天守があったどうかは定かではありませんが、櫓など、天守とも言える建物があったとも推測されています。
一の宮札所前バス停付近の登山口から一宮城の本丸跡までは、徒歩約30分の登りとなります。
時間があれば登りたかったのですが、今回は遠景写真撮影のみで断念しています。
駐車場は、大日寺の駐車場か、一宮神社の参拝者用無料駐車場が利用できるようです。
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