石見・福光城 (ふくみつ-じょう) は、島根県大田市温泉津町福波字福光にある山城で、標高は100m、比高は90mほどです。
別名は、不言城(ふげん)、物不言城(ものいわず)とも言います。
もともとは、福屋氏の城で、南北朝時代には本家筋の益田氏が北朝方となったのに対し、同じ益田氏の庶流でも、福屋氏・周布氏・三隅氏などは南朝方として活躍しました。
戦国時代には、本明城の福屋隆兼の一族が、石見・福光城を任されています。
福光は主要街道が交わり、港(津)もある、交通の要所です。
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1559年、毛利元就は、石見に侵攻すると、吉川元春は本明城の福屋隆兼を従えています。
福屋隆兼の正室は、吉川国経の娘です。
こうして、毛利勢の吉川元春をはじめ、福屋隆兼、出羽元実、佐波秀連、益田藤兼らは、尼子晴久に従っていた温湯城の小笠原長雄(おがさわら-ながかつ)を攻撃して降伏させました。
そして、毛利元就は、温湯城など石見・小笠原氏の本領の半分を吉川経安に与えて、石見銀山の管理も任せています。
この吉川経安 (きっかわ-つねやす) は、石見の国人・久利淡路守の子でしたが、母は吉川経佑の娘です。
石見・吉川氏9代である吉川経佑 (きっかわ-つねのり) の嫡子が早世していたため、1541年に、久利淡路守の子で、吉川経典の甥にあたる久利与七郎(吉川経安)を、3娘の婿養子に迎えて、家督を譲っていました。
そして、毛利元就が吉川氏の本家へ、次男・吉川元春を送ると、分家の吉川経安も、毛利家に臣従していたと言う事になります。
川本の温湯城の戦いにて、戦功があった吉川経安は、福光湊に所領を与えられたと言う事で、石見・福光城の城館も改修し、殿村城から本拠を移しました。
この時、温湯城の戦いで、毛利勢として従っていた、福屋隆兼は、領地替えとなった訳ですが、旧領の一部が、敵対関係にあった小笠原長雄に与えられたことで、理不尽だと不満を抱くようになります。
1561年7月、毛利氏が大友氏との戦いで九州に遠征している間に、福屋隆兼は、月山富田城の尼子義久に寝返ります。
そして、11月に、福屋隆兼2000と、尼子勢の援軍・湯惟宗の3000にて、失っていた、石見・福光城(物不言城)を攻撃しました。
このとき、吉川経安は、まだ珍しかった鉄砲を駆使して、撃退しています。
この、石見・福光城の戦いでは、子の吉川経家も、鉄砲にて活躍したと伝わります。
翌年の1562年、毛利勢は、石見・松山城、そして、福屋氏主力の本明城を攻撃したため、福屋隆兼は、尼子氏を頼って逃亡しました。
また、尼子義久に従い、福屋氏を支援していた本城常光に対して、吉川経安は、上山元忠らと石見・山吹城を攻撃して、接収しています。
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1574年、吉川経安は家督を嫡男・吉川経家に譲って隠居しました。
その後、1581年、子の吉川経家は、2万の羽柴秀吉に対抗するため、鳥取城にて7ヶ月の籠城の末、自刃して果てたのは有名です。
降伏して自害した、吉川経家の遺言状を受け取っており、遺児・吉川経実を養育しています。
正室(妻)である吉川経典の3女が、1599年7月10日に死去すると、近くの浄光寺に埋葬しました。
1600年、関ヶ原の戦いにて、毛利家は防長減封となり、嫡孫の吉川経実は、岩国城に移住した吉川広家に仕えて家老となっています。
吉川経安は、高齢を理由に福光に残り、1600年10月21日に死去しました。
浄光寺に、吉川経安の墓もあります。
また、吉川経安は、京の石工・坪内弥惣兵衛を招いて、福光石の採掘・加工を奨励し、五百羅漢などに用いられるなど、石見の文化・景観にも大きな影響を与えました。
ご子孫にあたる、有限会社坪内石材店が、今もその技術を継承しており、福光石「石切り場」の見学が事前予約・有料で可能になっています。
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山陰本線の石見福光駅から徒歩30分で、麓の古市橋の付近にある登城口に到着し、駐車スペースもあるようです。
石見・福光城跡は、地元の不言城会さんによって、案内板や登山道が整備されています。
本丸までは、約20分ほどのようです。
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