鵜丸城 (鵜の丸城、うのまるじょう) は、島根県大田市温泉津町温泉津にある海城で、沖鵜丸城とも書きます。
戦国時代に港湾として繁栄した沖伯(おきどまり)の港がある、港湾の丘が鵜丸城です。
温泉津の湾にせり出した、標高59mの尾根上に築かれており、比高は55mほどになりますので、山城とも言えるでしょう。
世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の登録のひとつで、同様に国指定史跡にもなっています。
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もともと、湯里駅の南東にある「温泉城」(ぬの-じょう)が出自と推測される、温泉氏(ゆのし)は、戦国時代になると、鵜丸城の北の沖にある島「櫛島城」を築いて、水軍も有していた模様です。
1559年(永禄2年)※1558年説もあり、毛利元就は、島根県川本町の温湯城(ぬくゆ-じょう) を攻略して、尼子晴久に従っていた小笠原長雄を降伏させます。
以後、毛利勢は、石見銀山に接近するようなり、周辺での合戦も激化しました。
1561年、毛利氏から離反した本明城の福屋隆兼は没落し、温泉城(ゆのじょう、島根県大田市)を本拠としていた温泉氏も敗走します。
これにより、温泉氏の支配下だった温泉津(ゆのつ)の櫛島城も、毛利元就が掌握したようで、その後、毛利勢は、1562年に、石見・山吹城の本城常光を降伏させ、石見銀山を手に入れました。
温泉津は、吉川経安に与えられたようで、物不言城を築いています。
産出された「銀」は、温泉津(沖泊)から、下関(赤間関)に船で運搬し、ポルトガルなどとの貿易を行いました。
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櫛島城の対岸にあたる、この鵜丸城 (鵜の丸城)は、1570年に、水軍基地として、毛利勢に味方していた石見・亀山城の都野隆安が築いたとされます。
これは、山中鹿之助らが、尼子再興軍を発した事態を受け、僅か1ヶ月で築城したことが、児玉氏の文書で見えます。
海に突き出た、笹島城も砦にするなど、毛利勢は、対岸の櫛山城と共に毛利水軍の拠点とし、沖泊から軍船200隻にて出陣し、安来の十神山城を急襲して、尼子再興軍に対しました。
逆光ですが、上記と下記の写真が「笹島城」で、温泉津の海の出入口を防御しています。
笹島城を見学する場合、道も無いようですので、上陸するのは困難な模様です。
鵜の丸城は、特に鉄砲で迫る敵を攻撃できる帯郭が、めぐらされているなど、新しい合戦様式への備えが見受けられるようです。
温泉隆長(温泉信濃守隆長)と言う武将がいますが、毛利勢に屈服したあと、温泉津から離れていたと推測されます。
1600年、関ケ原の戦いのあと、毛利氏は減封となり、長門・萩城を築いており、鵜丸城は廃城になったようです。
ただし、江戸幕府は、石見銀山を直轄としましたので、山陰の街道整備とともに、温泉津も引き続き、賑わったようです。
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鵜丸城へのアクセス・行き方ですが、JR山陰本線の温泉津駅(ゆのつ-えき)から、徒歩約20分の距離です。
鵜丸城の登城口は、沖泊の漁港である、城直下の倉庫左側(下記写真)にあるようですが、だいぶ「ヤブ」になっているようですので、登城は控えました。
当方のオリジナル地図にて鵜丸城の登城口をポイントしておきます。
ただ、駐車場がないので、温泉津港あたりで、釣りをしている車に紛れて止めて、徒歩で向かうと良いでしょう。
このあと、1300年の歴史を持つ、温泉津温泉に、入浴させて頂きました。
ここまで来たら、入浴せずにはいられません。
・石見・温泉城の解説 湯氏の居城
・石見・山吹城 本城常光が毛利勢から石見銀山を守る
・石見・福光城 (物不言城) 吉川経安の本拠地
・温泉津温泉「元湯」泉薬湯
・石見・亀山城 都野家頼
・十神山城の歴史解説【尼子十砦】毛利水軍により落城
・山陰地方の史跡・城跡へのカーナビにも便利な地図
10年以上前に鵜の丸城にのぼりましたが、頂上に灯台があり、沖泊や温泉津港一帯への視射界は良好でした。湾を出入りする船を見張るには絶好のポイントであり、郭の作りから戦国中期以降のものであることがうかがえました。もしくは縄張りを改修したのかもしれません。ヤブカが多かったので登らなかったのは正解かもしれません。