神奈川県

武蔵・小沢城 多摩川を見下ろす整備されている山城 小沢蔵屋敷

武蔵・小沢城

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武蔵・小沢城とは

武蔵・小沢城(おざわ-じょう)は、神奈川県川崎市多摩区菅仙谷にある山城で多摩丘陵の先端にあり、鎌倉道の矢野口(多摩川渡河点)を抑える交通の要衝にあります。
また、丘の麓には三沢川が流れ、標高87m、比高56m(三沢川と比較)の天然の要害となっており、別名は武蔵・天神山城とも言います。
築城は平安時代末期で、小山田城主・小山田有信の3男・小山田重成が稲毛領主となり、稲毛重成(稲毛三郎重成)と称しており、その時に築城されたとも、または、稲毛重成の子・小沢重政(小沢小太郎)が築城したともされますが、この小沢重政(小沢小太郎)は「小沢姓」であることから、小沢城の城主になったのは間違いないでしょう。

しかし、1205年6月22日、畠山重忠の乱が起こり、北条時政の謀略によって稲毛氏(小沢氏)が首謀者とされます。
翌6月23日、稲毛重成は大河戸行元により殺害され、子の小沢重政は宇佐見祐村に討たれました。
墓所は枡形城近くの稲毛館跡とされる広福寺(向ケ丘遊園)にありますが、一族の大半は讃岐に落ち延びたようで、香川県まんのう町に稲毛姓が残っているそうです。


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1205年11月3日、一族の小沢信重が、亡き稲毛重成と源師季(北条政子の妹・綾小路師季)との間の2歳の娘を連れて鎌倉を訪れると、北条時政の外曾孫である姫を哀れんだ北条政子が、姫を自身の猶子とし、小沢重成の遺領・小沢郷を与えました。
その後、一族の小沢信重(小沢左近将監信重)と言う名が見られ、応安年間(1368-1374)には小沢国高(小沢左衛門尉国高)が小沢城主だったようです。
また、小沢城の西側に小沢蔵屋敷の伝承がありますので、このページの最後に記載しておきます。
その年代の小沢城は足利尊氏の弟・足利直義の支配下であったそうなので、この頃、小沢国高(小沢左衛門尉国高)は足利直義に従ったとも考えられます。
そして、1351年、足利基氏(足利尊氏の4男)の家臣・高麗経澄(高麗彦四郎経澄)が小沢城を攻め落としており、この時に焼き払われたとあります。

小沢原の戦い

戦国時代になると、1530年6月、河越城から軍を進め深大寺城に入ってきた扇谷上杉家・上杉朝興を迎え討つため、小田原城主・北条氏康が軍勢を率いて小沢城に入っています。
そして、小沢原の戦いでは、初陣の北条氏康が勝利を収めました。

武蔵・小沢城

今回は小沢城の南側より登城してみました。
こちらからですと、標高43mからですので、比高は41mとなります。

小沢城南側の登城口

小沢城には、稲田堤駅からも尾根伝いに登れます。
また、京王よみうりランド駅からの場合は、穴沢天神社の参道から入れます。

小沢城の竹林

細い階段を上がると、やがて竹林に囲まれた、なかなかの雰囲気の中を登って行きます。

小沢城

ただし、竹林などは私有地ですので、立入禁止となっています。

小沢城

小沢城は地元の里山保存会の方が、定期的に草刈りなどをし、整備・保存なさってくれていますので、感謝しなくてはなりません。

小沢城

上記は空堀後です。手作りの説明版もあります。

小沢城の浅間山

上記は浅間山へ向かう途中の物見台の郭です。
1590年、豊臣秀吉小田原攻め以降、小沢城は廃城となったようですが、江戸時代には富士講が流行し、小沢城の「浅間山」の峰が富士塚として信仰を集めたようです。

小沢城

浅間山をあとにして、馬場跡方面に向かいます。

小沢城

なお、小沢城と言う名の城は、あちこちにあり、神奈川県には別の小沢城もありますので、歴史を調べる場合には、混同しないよう注意が必要です。

小沢城の馬場跡

上記は小沢城の馬場跡で、結構広いです。
この日は、幼稚園でしょうか?子供たちが訪れており、ドングリを拾っていました。

小沢城の竪堀

そうそう、竪堀もありました。

小沢城の遠景

上記は南側から見た小沢城の遠景で、下記は北側の三沢川から見た遠景です。
ちょうど京王線も通過しました。

小沢城の遠景

太平洋戦争中には、小沢城に「探照灯」が設置され、高射砲は枡形城(桝形城)に設置されていたと言います。

読売ジャイアンツ球場からもほど近い小沢城の見学所要時間は30分~50分です。
小沢城には駐車場はありませんが、南側の住宅街の道路は駐車禁止にはなっていません。
ただし、道が狭いですので、駐車しても消防車や大型トラットの通行に妨げとならない、広い道路の箇所を見つけて止めさせて頂きました。
駐車される場合には、くれぐれも住民の皆様の迷惑になら無いよう、配慮願います。

北側の三沢川沿いからも登れるようですが、南側の住宅街からの登城口(入口)は、下記の地図ポイント地点となります。

小沢蔵屋敷(小沢氏館)

最後に、京王よみうりランド駅近くの「小沢蔵屋敷」をご紹介しておきます。
新編武蔵国風土記稿に「旧跡、小沢蔵屋舗、小名谷戸の内、国安社の北の山間に在」と記載されており、妙覚寺の付近が小沢蔵屋敷とされます。
応安年間(1368年~1374年)頃の人物とされる小沢国高(小沢左衛門尉国高)が築いたとされますが不詳です。
また、江戸名所図会によると、妙覚寺境内を含むこの付近に、小沢小太郎の居館があったとされ、そうなると小沢氏館跡と言う事になります。

妙覚寺

妙覚寺の場所は下記の地図ポイント地点です。
参詣者用駐車場は、京王線の高架橋の北側にあります。

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コメント

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  • コメント (5)

    • sasa
    • 2020年 5月 05日

    鶴見の諏訪氏は、川崎市高津区二子新地にある諏訪神社辺りに姓を小黒に変えて土着した一族ではありませんでしょうか。小黒童謡記念館辺りの一帯です。

    • サトウツネマサ
    • 2022年 7月 22日

    はじめまして、

    稲毛三郎重成について調べています。
    infoseekで記事を見ました。

    この記事では稲毛三郎重成を大江戸行元が誅すと書いていますが
    他の資料では大河戸行元と書いています。
    何方が正のでしょうか?
    お教えください。

    • 城迷人たかだ
    • 2022年 7月 25日

    ご指摘を賜りまして、改めて確認させて頂きました。
    引用元の明示までは控えさせて頂きますが、引用元ではそのような記載となっております。
    しかし、精査致しますと、大江戸行元と言う人物が確認できませんでした。
    その反面、大河戸行元は確認できましたので、当方の内容も変更対応させて頂きます。
    ご指摘御礼を申し上げます。

    • 佐藤
    • 2023年 4月 17日

    高田哲哉様
    以前、稲毛重成を誅殺した、大河戸行元の件で
    お世話になりました佐藤です。

    現在、稲毛重成の一族を調査しています。
    鎌倉の弁が谷で重成と重政親子が三浦義村の配下
    によって殺されましたが、一族の大半は讃岐に逃れ、
    現在の香川県のまんのう町に稲毛の名字が残っていると
    言われています。
    何かご存じでしょうか?
    宜しくお願いします。

    東京都多摩市在住
    佐藤

    • 城迷人たかだ
    • 2023年 4月 17日

    佐藤さま、ご連絡ありがとうございます。
    ご存じだと思いますが、江戸時代には、阿野郡南川東村(香川県仲多度郡まんのう町川東)にて稲毛氏が庄屋を務めていたとあります。
    その程度しか当方ではわかりませんが、下記の「稲毛家文章目録」が参考になるかも知れません。
    https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/10353/mokuroku_10.pdf

城迷人たかだ

投稿者の記事一覧

高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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