興国寺城とは
興国寺城(こうこくじじょう)は国の史跡に指定されている静岡県沼津市にある連郭式平山城で、根小屋城、杜若城、久窪城、深田山城、高国寺城とも呼ばれます。
根古屋と青野の境にある、篠山と呼ばれる愛鷹山の尾根を利用した城ですが、一番高いところで標高36mほど、根小屋の交差点とで比高31mと、そんなに堅固ではありません。
しかし、その規模と大きな堀切、そして大きな土塁は、この付近では圧巻でみどころある城です。
また、興国寺城の歴史上でも、あの北条早雲が旗揚げした城とも言え、今川・北条・武田・徳川と目まぐるしく領主が変わり、そして豊臣秀吉の家臣・中村一氏も在城した城ですので、注目度も高いです。
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築城年は不明ですが、1487年頃に家督争いで今川氏親を助けた伊勢盛時(北条早雲)が富士郡に所領を与えられ、駿河・石脇城から、興国寺城に入りました。
東海道に続く竹田道と根方街道が交差する交通の要所でもあり、もともとは興国寺という寺院があったようですが、鳥谷に移転させ、その跡に築城したと言われています。
また北条早雲は興国寺城の領民に「四公六民」を実施するなど、当時としては先進的な統治を行いました。
そして、北条早雲(北條早雲)は堀越公方を滅亡させて、伊豆・韮山城を築きますが、その頃の興国寺城主には、家老の富永政家が担当したようです。
興国寺城の主郭(本丸)は、一番高い所ではなく穂見神社がある標高20mほどの地点です。
その為、敵は南側から比高15mほどを登って来て攻める形となりますが、南側はなだらかな斜面で、防御的もそんなに強くはありません。
ただし、その南を除く三方には高さ10mほどの土塁を巡らせ、更に新幹線が走っている北の背後を深さ10mほどの大空堀で遮断しています。
このようにすることで、敵が攻めて来るであろう南側の防御に専念できる構造となっていますが、それでも現地を見る限りでは防御弱いです。
ただし、戦国期には東側の低地は「浮島沼(蓮池)」だったようで、その水を南や西まで引き込んでいたと考えると、それなりの防御態勢はあったと思われます。
なお、土塁に関しては、土を盛ったと言うよりは、もともとの台地の高さを生かして、堀として削ったことで高土塁にしたと推定できます。
北側中央の土塁上には伝天守台があり、石垣や礎石が残されていますが、物見やぐら程度の建物だったのではないでしょうか?
なお、この天守台は北背後の大空堀に対して張り出しているのが特徴で、北から攻め込まれた場合には横矢掛けが可能となっています。
北条早雲(北條早雲)が韮山城に移ったあとは再び今川家の所有となり、1545年には今川義元が興国寺城から長久保城を攻めています。
今川義元の時代にも興国寺城を改修したとありますが、現在の規模はもう少し後の時代に修繕したように思えます。
1551年には北条氏康が駿河へ侵攻し、興国寺城は一時、北条家のものとなりますが、その後、今川義元が取り返しています。
1569年にに武田信玄が駿河に入ると、葛山城や興国寺城も武田が落城させますが、その後、北条氏政・北条氏邦が奪還し、興国城には垪和氏続(はが-うじつぐ)を入れてますので、大堀切は北条流と言えるでしょう。
しかし、1571年1月に、垪和氏続と垪和善次郎が城と共に討死し、以降は武田家の所有となり、穴山信君(穴山梅雪)の家臣である、保坂掃部、向井正重(向井伊賀守正重)、曾根正清(曾根下野守正清)らが在番しています。
1582年、武田滅亡時の興国寺城主は曾根正清で、徳川家康に興国寺城を明け渡すと徳川家臣となっています。
のち、興国寺城には牧野正康(牧野右馬允正康)が入りましたが、そのあとすぐには竹谷松平家の松平清宗が2000貫与力50人にて城主を務め、小牧・長久手の戦いにも参加せずに1590年2月まで北条家を牽制しました。
徳川家が江戸城に移ると、中村一氏が駿府城主として駿河145000石を治めた為、中村家臣・河毛重次(河毛惣左衛門尉重次)が城主となり、1600年、関ヶ原の戦いを迎えます。
関ヶ原のあと、中村家は米子175000石となり、1601年2月、興国時城には徳川家康の家臣・天野康景(天野三郎兵衛康景)が赴き、1万石にて興国寺藩主となりました。
しかし、1607年3月に事件が起こります。
天野康景が伐採して貯えた竹木を盗む者が出て、家臣がその盗人と思われる人物を斬ります。
しかし、徳川家直轄地である天領の領民であった為、問題となり、本多正純が天野康景に対して、斬った家臣の引き渡しを求めました。
この時、天野康景は家臣をかばって拒んだだけでなく、興国寺城から子の天野康宗と共に3月9日に出奔したため、天野家は改易となり、興国寺城は破却・廃城となりました。
交通アクセス
興国寺跡の駐車場は城の内部にあり、下記の地図ポイント地点となります
トイレは本郭奥の穂見神社脇に仮設タイプがありました。
※興国寺城の麓は海抜5mくらいです。付近を訪問中に大きな地震を感じたら、北側の新幹線の先など、高台にすぐ避難なさってください。
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垪和氏続父子は討ち死にしていません、逆に侵入してきた武田方数百名を自ら太刀を振るって撃退し北条氏政より感状と秋広の刀を頂戴しています。