甘崎城(天崎城)とは
甘崎城(あまざきじょう)は、愛媛県今治市上浦町甘崎の古城島にある海城で、別名を天崎城、古城、岸の城、荒神城とも書きます。
瀬戸内海の大三島の東に、古城島(甘崎城跡)(標高18m)があり、代々、越智氏、今岡家の今岡民部大輔・今岡伯耆守などが城主を務めました。
最初の築城としては、日本最古の水軍城となる671年に整備されました。
白村江の戦いに破れた智天皇は、唐の軍勢が日本に侵攻してきた場合に備えて、671年に築城させたと言う、日本で最古の水軍城で、当時は上門島海防城と記されています。
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大三島の160mほど沖にある島全体が「甘崎城」となっており、4月~8月に年数回だけ干潮時に陸続きとなる城跡で、現在は無人島です。
甘崎城(天崎城)は、潮が引くと島に渡る事ができる陸路ができ、幾重にも石垣が築かれており、満潮時には没しないと言う「海中縄張り」になっています。
※現在でも干潮時に長靴などで渡れますが、危険もありますので充分に計画を練って、自己責任の上、渡って下さい。4月~8月の年数回、海上ウォークも実施されます。
※年によっては1回もチャンスが無い場合もあります。また、渡るのは自己責任で、泳いで渡るのは大変危険ですので、念の為記載しておきます。
戦国時代には瀬戸内海を制覇した村上水軍の本拠地の1つとして来島城主・村上通康の支配となり、村上吉継が城主を務めています。
1576年8月には、西園寺宣久が鞆の浦から、板島丸串城(宇和島城の前身)に向かう際に、村上吉継の甘崎城にて1泊しています。
1600年、関ヶ原の戦いのあと、今治城主となった藤堂高虎の領地となり甘崎城には藤堂良勝(藤堂大輔)が入り、更に石垣などを改修し「総石垣」としたようです。
石垣は海が引いた際に陸路での攻撃を防ぐためのものです。
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礎石と瓦も、甘崎城跡に転がっていることから、屋敷などの建築物もあったようです。
しかし、藤堂家は1608年に伊勢・安濃津への転封となったため、甘崎城は廃城となっています。
残された石垣の多くは、幕末になって大三島の塩田や水田開発などに再利用されたようで、現在の石垣は干潮時に僅かに姿を表すだけになっています。
機会があれば是非、渡ってみたい甘崎城ですが、さすがに関東からだとそうそうタイミングが難しいです。
なお、渡れたとしても陸になっている時間も30分ほどと、非常に短い場合が多いようですので、かなり危険を伴います。
普通の靴など、安易な装備では無理なところですので、きちんと計画を立てて、無理せずに安全第一にて訪問したいところです。
なお、下記のような「足洗い場」も近くにありました。
下記地図のポイント地点は、甘崎城(天崎城)の撮影ポイントでもあり、干潮時に海を渡る際の入口でもある場所。
1608年に藤堂高虎が宇和島藩(宇和島城)へ移封となると、甘崎城も廃城となった。
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