城生城(じょうのう-じょう)は、富山県富山市八尾町城生にある標高130mほどの山城で、比高は60mほどになります。
別名は、城尾城、蛇尾城、恵智谷城、天狗平城とも言います。
神通川とその支流・土川に挟まれた台地の上に城跡があり、飛騨街道と神通川の抑えになっています。
最初の築城は、在地豪族の斎藤氏で、南北朝時代に斎藤常喜(斎藤左衛門大夫入道常喜)は、北朝に味方して桃井直常と戦ったため、足利尊氏から越中国楡原保を与えられ、城生城を築いたと言うことになります。
そして、戦国時代まで婦負郡楡原保一帯を所領とし、越中守護代・神保氏の傘下に加わることもなく、小勢力として独立性を維持していたようです。
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しかし、当然、神保氏から見れば目障りな訳でして、1543年、神保長職は城生城を包囲しました。
このとき、斎藤氏は2年間も籠城したようで、能登守護・畠山義続が仲介して、和睦が成立しています。
そして、斎藤利基(斎藤伯耆守利基)の子・斎藤信利(さいとう-のぶとし)と言う武将が、1554年に城生城(蛇尾城)にて誕生しました。
母は神保氏の娘ですので、この頃、越中・斎藤家は、すでに神保氏に服属したようです。
ちなみに、斎藤信利の正室は三木良頼の娘です。
1571年、飛騨・古川城の塩屋秋貞が越中に侵攻した際に、塩屋勢は城生城の対岸の岩木に向城を築きました。
また、栂尾城、猿倉城も整備して包囲しています。
そのため、危機を感じた斎藤利基と斎藤信利は、春日山城主・上杉謙信に救援を依頼しています。
こうして、上杉勢の援軍を得て、塩屋勢を撃退し、以後は上杉氏に属しました。
1573年、斎藤利基が没して、家督を継いだ斎藤信利は、上杉謙信が死去すると、いち早く織田信長に誼を通じています
織田信長は、飛騨からの交通の要地・城生城に、斎藤利治、佐々長穐、神保長住らを送り込むと、月岡野の戦いで上杉勢に大勝を果たしました。
この時、斎藤信利も戦功があり、弟・斎藤信吉(斎藤久右衛門信吉)は、今泉城を攻撃しています。
織田信長は、越中・斎藤氏を高く評価し、諱の「信」の字を与えたと考えられます。
1582年、明智光秀が本能寺の変を起こすと、斎藤信利は、前年から内通していた上杉景勝に寝返りました。
そして、上杉景勝と共に、佐々成政に1年間対抗しましたが、神保氏張が城生城(蛇尾城)を占領したため、義兄・姉小路頼綱を頼って落ち延びたと言います。
その後、佐々家の家臣・佐々与左衛門が1万石にて城生城に入りました。
富山の役にて佐々成政が降伏したあとは、前田利長の領地となり、家臣の青山吉次が城主となっています。
その青山吉次が越中・魚津城へと移ると、越中・今石動城から篠島清了(篠島織部)が移ったともされますが、廃城になった模様です。
一方、飛騨の逃れていた斎藤氏は、敵であった佐々成政に仕えていて、国境の要衝・湯山城の守備を任されていました。
しかし、佐々氏が没落すると、のちに徳川家康に召し出され、下総国・近江国で1500石になっています。
弟・斎藤信吉は、上総国で400石となり、徳川秀忠に従って、関ヶ原の戦いの際には、上田城攻めの上田七本槍の一人として功名をあげています。
その後、斎藤信利は1610年8月4日に、山城・伏見城下にて死去。享年57。
越中・斎藤家の子孫は、徳川家の旗本として続いており、赤穂浪士の赤穂城を引渡目付として派遣された書院番・斎藤左源太などがいます。
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今回、写真でお分かりのとおり、土砂降りの雨天だったため、登城は控えました。
しかし、城生城(蛇尾城)跡は、空堀など山城特有の遺構がほとんどそのまま残存しているいと言い、また、山城にしては登城も苦労しないようですので、ぜひ、訪れたいところです。
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