近江・瀬田城(せた-じょう)は、滋賀県大津市瀬田にある平城で、別名は勢多城、山岡城とも言います。
東海道・中山道から京都に出入りするためには、琵琶湖を船で渡るか、北側から迂回しないかぎりは、琵琶湖から大阪湾に流れている「瀬田川」を渡る必要があります。
そのため、古来より交通の要所として瀬田は栄えました。
少なくとも、飛鳥時代の667年に天智天皇と中大兄皇子が、近江大津宮に都を移した頃には、瀬田の唐橋(瀬田の長橋)があったようです。
ただ、昔は、丸木舟を横に何艘も並べた橋になっていた模様です。
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そして、東国から京都に入る際には、必ず通行する場所でもあったことから、壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、京都に関係する戦乱では、瀬田でいくども合戦になりました。
急がば回れと言うことわざも、瀬田橋のことからのようです。
そのため、瀬田を収める領主も当然いた訳でして、最初の築城は不明ですが、永享年間(1429年~1441年)には、山岡資広が近江・瀬田城主とあります。
山岡氏は、観音寺城の六角氏に仕えていましたが、戦国時代には、江南の旗頭ともされる山岡景之(やまおか-かげゆき)がいます。
その子・山岡景隆(やまおか-かげたか)は、六角氏と足利義輝に仕えており、山内一豊が浪人していた際には、家臣として召し抱えていたこともあるようです。
1568年、織田信長は、足利義昭を奉じて京へ登ろうとした際に、山岡景隆に対して織田家に臣従するよう促しました。
しかし、山岡景隆は、織田勢に抵抗したため、1569年に攻撃を受けて、山岡景隆は松永久秀の家臣・柳生宗厳を頼って逃れた模様です。
その後、山岡景隆は織田家に降伏して、弟・山岡景友と共に佐久間信盛の与力となりました。
なお、山岡景隆は織田信長にかなり忠実につくしたようで、甲賀衆を任されたりしています。
1575年には、長さ約324m、幅約7.2mの立派な瀬田橋が完成しました。
織田信長が足利義昭と対立するようになると、山岡氏は織田勢として槇島城も攻撃しています。
その後、1577年の雑賀攻め、1581年の伊賀攻めにも参じました。
1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、近江・瀬田城は明智勢に狙われるようになりました。
明智光秀に味方することもなく、山岡景隆と山岡景友は瀬田橋を落として明智勢の進軍を妨害しています。
そして、山岡氏は、一族で山中へ逃れましたが、羽柴秀吉に随時、明智勢の行動を報告しています。
また、明智勢は、瀬田川に仮橋をもうけるのに、3日間要したともあります。
その後、瀬田の唐橋を復旧させたのは、豊臣秀吉で、現在の大小2橋の橋の位置に架けたとされています。
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清須会議のあとは、山岡家は織田家に忠節を誓う立場から柴田勝家に味方して、羽柴秀吉とは敵対しました。
しかし、1583年、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れると、羽柴秀吉に降伏しました。
山岡氏の所領は没収され、以後は甲賀にて隠遁しています。
恐らくは瀬田城は廃城になったと推測され、江戸時代には膳所城が瀬田橋を管理しました。
山岡景隆は1585年に、甲賀郡毛牧村(もひら)にて死去しています。享年61。
ただし、山岡景隆の7男・山岡景以(やまおか-かげもち)は、1588年に、豊臣秀次の家臣として3000石になっており、のち甲賀・水口城を徳川家より任されています。
また、弟の山岡景隆は、豊臣秀吉の直参になると御伽衆に加わりました。
大津城の京極高次とも親しく、豊臣秀吉が死去したあとは、黒田長政を通じて徳川家康に従っています。
関ヶ原の戦いの際に、山岡景隆は、伊勢・長島城の福島高晴を助けて、東軍として戦いました。
これらの功績が認められ、常陸・古渡藩1万石となっています。
瀬田城跡には臨湖庵という料亭がありましたが廃業し、2008年にグランスイ-ト近江・臨湖庵と言うマンションが建てられました。
その西側の一角に、城址の石碑があります。
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近江・瀬田城への交通アクセス・行き方ですが、京阪電鉄・石山坂本線の唐橋前駅から、徒歩5分となります。
クルマの場合、駐車場はありませんが、石碑の川側(道路の西側)に、路側帯があり、短時間であれば停車が可能です。
駐車になると駐車禁止ですので、車からは離れないよう、ご注意願います。
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