能登・菅原城(すがわら-じょう)は、石川県河北郡志雄町菅原にあり、別名は菅原館、御館とも言います。
標高は50mほどの大納言山と呼ばれる丘城で、比高は40mほどです。
城の北側には城下町のような古い街並みになっています。
この能登・菅原城も、他の多くの能登の城と同じく多分に漏れず、群馬にも同名の城である上野・菅原城があり、色々と混同しやすいのでご注意願います。
能登・菅原城は、とても歴史的にも意味がある城なのですが、あまり知られていないのがとても残念に感じます。
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大納言山と呼ばれる由縁は、恐らくは、前田利家が大納言様と呼ばれたからでしょう。
そうなんです。
1575年、前田利家は越前・府中城に3万3000石を与えられて、はじめて城持ち大名となります。
ただし、まだ独立大名ではなく、北ノ庄城主である柴田勝家の与力を命じられていました。
与力(よりき)と言うのは、大勢力の武将の指揮下に入った、中勢力の武将と言う事になります。
すなわち、その柴田勝家の命に従って動くしかありませんでした。
上杉謙信の死後、柴田勢は加賀一向一揆の拠点である金沢御堂(尾山御坊)を攻略し、1581年には能登の七尾城も織田家が支配します。
この時、織田信長は、能登の戦後処理として、下記の武将を派遣しました。
七尾城には菅屋長頼、長連龍は福水館、福富行清は富木城、そして、前田利家は、羽咋(はくい)の加増を受けて、能登・飯山城に入りました。
しかし、水の便が悪いと言う理由からすぐに本城を移したようで、この能登・菅原城を本拠にした訳です。
ちなみに、菅屋長頼と福富行清は、織田信長の若き側近で馬廻衆を務めていたいわば奉行です。
どういうことかと申しますと、この頃、織田信長の戦略として、戦闘が得意な武将は合戦に使い、政治が得意な武将は統治を担当させる傾向があります。
合戦で新たな土地を手に入れると、戦後処理は主に奉行に任せて、軍事力のある武将は、また別のところで戦わると言う効率が良い人材の使い方をしています。
そのため、前田利家も、有岡城の戦いや、播磨・三木城攻めにも参加していますので、能登にはほとんどいなかったものと推測致します。
そして、奉行らは戦後処理を終えると京に呼び戻されており、織田信長は能登が安定したのを見極めて、前田利家が能登国10万石を受領しました。
前田利家は、能登・菅原城から本拠を七尾城とし、すぐに小丸山城を築城して移っていますが、この城から大出世していったとも言えるでしょう。
奉行だった菅屋長頼と福富行清は、京にいたところ、明智光秀の本能寺の変となって、織田信忠のもとに駆け付けると二条城にて討死しました。
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数年前に、小谷城の本丸から自分が落城(本丸から大堀切に滑落)して以来、無理な登城は事はしないように決めています。
そのため、登城は控えましたが、大納言山を望むと、戦乱の一端を見たような気がいたしました。
能登・菅原城の場所は当方のオリジナル地図にてポイントしてあります。
城から離れた際には土砂降りの大雨になりました。
登っていなくて、よかった・・。
・七尾城 畠山義統と畠山義総 上杉謙信との七尾城の戦い
・能登・末吉城とは
・能登・菅原城 あまり知られていない前田利家の出世城
・小丸山城 前田利家とんとん拍子の出世城
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