石川県

能登・末吉城

能登・末吉城

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能登・末吉城(すえよし-じょう)は、石川県羽咋郡志賀町末吉にある標高53.8mの山城で、比高は50mほどのようです。
別名は、笹山城、堀松城、篠山城とも言い、最高部には狼煙台があったと言います。
そのため、本丸(本郭)は下がった西側にあったようで、得田街道、土田街道を監視する要衝でした。

末吉城と言う名称の城も、能登だけでなく、大隅・末吉城、伯耆 末吉城と他にもありますので、混同しないよう注意が必要です。
能登の城名は、日本全国に他にもある割合が多いです。
しかし、能登には末吉城以外に、末森城もありますので、これまた混同しやすいです。


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最初の築城は不明ですが、応永年間(1394年~1428年)頃に、手筒氏が築いたとされます。
能登守護の畠山氏の重臣に平氏(ひらか-し)がいます。
この平氏は「平箇氏」とも書いたそうで、手筒氏と同一なのではとする説があります。

戦国時代に入ると、天正(1573年~1592年)には能登・畠山氏の家臣である松波義行(松波丹波守義行)や河野肥前が登・末吉城主でした。
しかし、遊佐続光や上杉謙信らの攻撃にて落城しており、河野肥前は討死したとされます。

1581年、前田利家が能登・小丸山城主となると、家臣の中川家範が能登・末吉城に入りました。

出ました。
中川家範・・。
なんとも、怪しげなお名前です。

前田家の家臣に、中川家範と言う武将を捜すのは至難の業です。
そのような名称の武将は、能登・末吉城主になったと言う記載以外に文献には登場しないようなのです。

似たような武将の名前ですと、中川重政中山家範がいます。


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まず、中山家範(なかがわ-いえのり)ですが、小田原城の北条家の家臣で、八王子城主・北条氏照の配下となり重臣でした。
北国勢として1590年に前田利家は八王子城を攻めています。
このとき、中山家範は降伏勧告に応じず討死したとされ、その武勇を称えられたこともあり、子孫は徳川家康に仕えています。
と言う事で、歴史に完璧を求めるのは難しいですが、中山家範と前田家の接点は、八王子城の戦いの1590年ですので、中川家範は中川家範とは別人だと考えられます。

もうひとりの中川重政、下の名前がぜんぜん違います。
しかし、中川重政(なかがわ-しげまさ)は、前田家の家臣であった可能性があります。
中川重政は、もともと織田信長に仕えていましたが、弟の津田盛月が柴田勝家の家臣を殺害したことから、所領没収になっていましたる
そのあと、徳川家康の家臣として三方ヶ原の戦いでは武田信玄とも戦っていますが、1573年に罪を許されて織田家に帰参していました。
そして、織田信長が留守の安土城代を任されたりしています。
中川重政の没年は不明ですが、嫡男・中川光重(なかがわ みつしげ(なかがわ-みつしげ)は、前田利家の次女・簫姫(瑞雲院)を正室に迎えています。
ただ、調べる限り、中川光重が結婚したのは、本能寺の変があったあとの1582年なのかな?と言う印象です。
もちろん、違うかもしれません。
しかし、1584年の末森城の戦いにて、中川光重は戦功があったようですので、接点はあります。
と考えますと、能登・末吉城になった中川家範と言うのは昔の文献の記載間違いで、中川重政か中川光重だったのか?と考えますと、しっくりきます。
能登の歴史は、このように、記載間違いが多々あると申しましょうか、非常にややっこしいところがあります。
もちろん、歴史は不明な点が多いのが事実ですので、当方が調べた史料じたいが間違っていることもあり、なんとも言えません。


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能登・末吉城への交通アクセス・行き方ですが、西来寺の境内駐車場を拝借しますと、本丸跡までのぼる事5分ほどのようです。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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