小丸山城(こまるやま-じょう)は、石川県七尾市にある標高22mの独立丘陵になっている平山城で比高は15mほどになります。
現在は、市民の憩いの場として、小丸山公園になっています。
恐らくは、南側にあったと推定される、能登守護所・府中館の詰め城として、古くから砦の機能を持っていたと推測します。
しかし、籠城するには、心もとない低い丘ですので、能登・畠山氏は、七尾城も整備し、戦国時代には本拠を七尾城に移していました。
そのお陰で、上杉謙信の攻撃にも耐えましたが、最終的には、内応者が出て落城しています。
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そのあと、1581年、織田信長の家臣で柴田勝家の与力になっていた前田利家が能登10万石を与えられて、越前・府中城から能登・菅原城へと能登に移ります。
そして、菅屋長頼が戦後処理したあとの七尾城に入りました。
しかし、能登の統治に向いていて、七尾湊からも近くて能登水軍の基地としても有効な小丸山城を本拠にするため、大改修を施したようです。
1582年には完成したようで、近くには29もの寺院も建立して城下町を整備しています。
小丸山城の西側にある西光寺の山門は、七尾城の城門を移築したものと伝わりますので、このように建材は再利用されたのでしょう。
小丸山城の前田利家は10万石とは言え、まだ独立大名ではなく、北ノ庄城主である柴田勝家の与力でした。
与力(よりき)と言うのは、大勢力の武将の指揮下に入った、中勢力の武将と言う事になります。
すなわち、その柴田勝家の命に従って動くしかありませんでした。
しかし、1582年、本能寺の変で織田信長が横死すると、織田家は分裂して、1583年、羽柴秀吉と柴田勝家は、ついに賤ヶ岳の戦いとなりすま。
この時、前田利家は、柴田勝家の与力でしたので、柴田勢として出陣しました。
ただし、もともと木下藤吉郎の時代から仲が良かった前田利家は、調略を受けたようで寝返ります。
前田勢は、ほとんど戦わずに越前・府中城に撤退したため、柴田勢は大敗を喫しました。
でも、柴田勝家も優しいと申しましょうか、肝も据わった武将です。
敗走すると、敵になったとも言える越前・府中城を訪れて、湯漬けを所望したと言い、前田利家にこれまでの苦労をねぎらい、別れを告げました。
その後、前田利家は羽柴勢に完全に降伏して、柴田勝家の居城である北ノ庄城への攻撃では先鋒を務めました。
この功績で、佐久間盛政の旧領を加増されて、前田家は本拠地を加賀の金沢城(尾山城)に移しました。
小丸山城には、前田利家の兄である兄の前田安勝(まえだ-やすかつ)が、13500石にて残り、能登を任されています。
元畠山家臣の長連龍も支援したのでしょう。
前田安勝は、能登・棚木城が反乱を起こした際には鎮圧するなどの活躍が見られます。
1584年、奥村永福・千秋範昌が籠った能登・末森城での末森城の戦いでは、佐々成政・神保氏張・佐々平左衛門らの軍勢を前田勢が破りました。、
1594年に前田安勝が死去すると、家督は子の前田利好が継ぎ、引き続き1万3750石で小丸山城を守り抜いています。
前田利家は、豊臣秀吉の政権下で五大老になり、加賀120万石を築きました。
1615年、小丸山城は一国一城令により廃城になりましたが、小丸山に七尾奉行が設けられています。
小丸山城への交通アクセス・行き方ですが、JR七尾駅から徒歩9分ほどになります。
七尾駅からレンタサイクル(貸自転車)でも良いでしょう。
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北側に、能登での嫁入りの際に、花嫁がくぐった豪華な「のれん」の風習を展示・体験可能な「花嫁のれん館」があり、無料の駐車場が利用可能です。
他にも、南側の国道249号と線路の間に、観光バス4台も止められる駐車場があります。
当方のオリジナル地図にてポイントしておきます。
小丸山城の見学所要時間は、約20分といったところです。
ソメイヨシノ、シダレザクラなど桜の木も多く花見ができることから、毎年4月中旬頃には「さくらまつり」も開催されます。
なお、一部の情報にて、近くの西光寺に小丸山城の移築門があるとされていますが、これは誤りのようです。
七尾城の移築門がかつてあったようですが、その門は壊れてしまい、扉の部分だけが、七尾城の資料館に寄贈されているようです。
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