放生津城(ほうじょうづじょう)は、富山県射水市中新湊ある平城で海に面していたことから海城とも言えます。
日本海側有数の港町として栄えた放生津にあり、別名は、奈呉城、放生津館とも書きます。
最初の築城は不詳ですが、鎌倉時代の末期の1290年、執権・北条貞時の命を受けたとされる名越時有(北条時有)が越中守護となり、放生津城を築城して守護所としました。
1333年、鎌倉幕府打倒のため後醍醐天皇が挙兵すると、恒性皇子が、出羽や越後など東北から北陸道を通って京を目指します。
このとき、第14代執権・北条高時は、皇子の殺害を名越時有に命じました。
そして、名越時有の甥である名越貞持らの軍勢が、皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通らを暗殺しています。
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そのため、1週間後には、約1万とも言われる反幕府の大軍に、地元の井上俊清らも加わり、放生津城は包囲されました。
落城の様子は太平記に記載されています。
兵も脱走して進退窮まった名越時有は、妻子ら奈呉の浦(射水市)で入水自殺させ、城に火を放つと自刃しました。
室町時代には、越中守護の畠山氏の重臣になっていた神保氏の本拠となっていました。
神保氏は室町幕府の管領・畠山氏の鎌倉以来の譜代家臣であり、越中の守護代も務めました。
1443年には、神保国宗の館が放生津にあるとの記述がみられます。
応仁の乱が勃発すると、畠山政長の腹心である神保長誠(じんぼう-ながのぶ)が活躍しています。
1493年、明応の政変では、将軍職を追われて幽閉された足利義稙を京都で救出し、放生津館に迎えると、正光寺を改装して将軍の御座所としました。
足利義稙は越中公方と呼ばれています。
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1501年、神保長誠が病死すると、内紛の末、神保慶宗(じんぼう-よしむね)が家督を継承します。
しかし、1506年、加賀一向一揆の侵攻を許し、越中守護・畠山尚順は、越後守護の長尾能景に救援を要請します。
そして、長尾能景は一向一揆との戦いのため越中へ出陣しましたが、般若野の戦いで討ち死にしました。
これは、神保慶宗の裏切りによるとされ、以後、神保家は長尾家から敵視されます。
その後、神保慶宗は主家・畠山氏から独立を目指し、一向一揆と結びました。
そのため、畠山尚順と長尾為景の逆襲を受けて二上山城(守山城)で籠城しています。
一度はしのぎ、椎名長常の味方も得ましたが、1520年、新庄の戦いで敗れて、敗走途中に神保慶宗は自刃しました。
その後、弟の神保慶明(じんぼう-よしあき)が、畠山氏によって擁立されたようですが、歴史上からは活躍が見られまず、神保氏は滅亡した形になっています。
このように、次第に、平城で防御力が弱かった越中・放生津城は、戦略的には意味がなくなりました。
のち、神保家は神保長職が再興しますが、富山城を築いて本拠としています。
その後、上杉謙信が陣を置いたとも、前田利家の統治になると家臣の奥村永福、山崎長鏡らが放生津城に入ったともあります。
廃城年は不明ですが、江戸時代の初めには完全に使われなくなりました。
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放生津小学校に土塁があると言われていますが、その土の盛り土は、砂止めで、往時のものではありません。
と言う事で、北陸の政治・経済・文化の中心として栄えた放生津城も、遺構はほとんど残っていません。
放生津城への交通アクセス・行き方ですが、加越能鉄道の中新湊駅にて下車して徒歩7分となります。
駐車場はありません。
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・富崎城 神保長職の本拠だった城跡か?
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・日本全国のお城マップ(オリジナル)
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