弓庄城(ゆみのしょうじょう)は、富山県中新川郡上市町館にある平城で、弓之庄城とも書きます。
新川郡一帯を領した土肥氏の居城ですが、土肥氏の発祥は、相模の土肥(湯河原)の土肥実平となります。
鎌倉時代に土肥実綱の弟・土肥頼平が、建長年間(1249年~1255年)に越中へ移りましたが、不確定です。
南北朝時代に土肥氏が入って土着したともあります。
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畠山氏が越中守護になると、土肥氏は畠山氏に従いました。
相模の土肥氏は没落しましたが、越中・土肥氏は健在で、特に、土肥将真は畠山尚順に従って室町幕府将軍に謁見も果たしています。
戦国時代に入ると、富山城主・神保長職の勢力拡大に飲み込まれて没落しましたが、弓庄城に残った庶流の土肥政繁が上杉謙信に臣従して命脈を保っています。
土肥政繁(どい-まさしげ)は、1578年に上杉謙信が死去すると、多くの越中国人がそうしたように、織田家に寝返りました。
しかし、1581年、佐々成政の軍勢が、弓庄城を包囲しているため、上杉景勝に通じていたようです。
ただし、上杉家は、戦力低下で援軍も出せなかったため、1582年に降伏しました。
しかし、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、また、上杉家に寝返りました。
1583年2月、佐々成政が越後へ侵攻した際には、隙を突いて太田新城を奪うなどしましたが、魚津城が佐々勢に攻略されると進退窮まり、弓庄城は4つの城砦で包囲されます。
そして、土肥政繁は越後の糸魚川城に落ち伸びました。
1584年、上杉勢の越中攻めでは、先鋒を務め、越中・宮崎城、越中・天神山城などの守将を任されています。
その後、越中は前田利家の領地となり、土肥政繁は、旧領復帰を果たせず、越後・能生で1590年に没したとあります。
そして、一族は、最上義光や村上頼勝に仕官したようですが、最上家のお家騒動にて自害した、越中・土肥氏もいるようです。
越中・弓庄城は、南北600m、東西150mと、なかなか広大な城域で、川の水をせき止めた水堀で囲まれていたようで、小さな総構えと言った様相だった模様です。
これは、土肥氏の家老だった有沢氏が、江戸時代に描いた古城図により判明しています。
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弓の里歴史文化館の道路反対側、水田のあぜ道を入ったところあたりが、城跡だったようで、城址碑があります。
また、弓の里歴史文化館(無料)に、城跡の模型が展示されているとの事です。
弓の里歴史文化館の駐車場を拝借可能です。
場所などは、当方のオリジナル北陸地図もご参照賜りますと幸いです。
・富山城 続日本100名城 神保長職と神保長住
・魚津城 上杉勢13人の武将が自刃した魚津城の戦い
・日本全国のお城マップ(オリジナル)
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