富山県

舟見城 飛騨が渕に身を投げた入善飛騨守五郎左近尉

舟見城

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越中・舟見城(ふなみ-じょう)は、富山県下新川郡入善町舟見にある山城で、別名は狐平城、舟見塁と言います。
標高は253m、比高120mとなかなか堅固な城です。
城跡が舟見山自然公園として、とてもキレイに整備されていますが、城跡として整備した訳でいないため、遺構が破壊されたとのことです。
しかし、本丸跡には、立派な模擬天守が建てられており、内部は舟見城址館として資料館になっています。


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ただし、この模擬天守も、なんだか違和感があるな?と感じましたら、最上階が、下の階層の同じ大きさなのですね。
大変失礼ながら、単なる三階の建物に、屋根だけお城風にしたような作りになっています。

舟見城

なお、西に延びる尾根には、堀切が残っているそうです。

舟見城は、平安時代の末期に、越中・宮崎城主である宮崎長康(宮崎太郎長康)の子・入善小太郎が築いたとされます。
ただし、この時代、山城を築くとは考えにくいため、麓の入善町舟見に館を構えて、詰の城にしたと推測致します。

宮崎氏の祖は、中臣鎌足(藤原鎌足)ともされ、その一族が越中を与えられて井口光範が宮崎姓を称した模様です。
後白河法皇の孫で以仁王の第一皇子・北陸宮が宮崎氏を頼りました。
1184年、木曽義仲源頼朝から追討を受け、源範頼源義経と戦い討死すると、北陸宮は京嵯峨野衣に隠居となり、宮崎家と一族は没落したとされます。


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戦国時代の弘治年間(1555年~1578年)には、春日山城上杉謙信が越中に侵攻しました。
このときの舟見城主は、入善左近尉(入善飛騨守五郎左近尉)で舟見城に籠城しました。
しかし、上杉勢に城の水源を教えた老婆がおり、水の手を断たれます。
そのため、城から出た入善飛騨守五郎左近尉は、黒部川の崖上から身を投げたと言われており、その場所「飛騨が渕」と呼ばれています。

飛騨が渕の場所ですが、黒部川に掛かる愛本橋の上流の愛本堰堤付近のようですが、撮影に適切なところなどはなさそうです。

本丸からは舟見の名の通り、遠くは日本海も望める展望の良いところです。

舟見城からの展望

模擬天守が麓の城下町から山の上に見えるのですが、すみません。
どうしても逆光で、逆光ではない方角からですと、今度は、城の建物が見えないため、うまく撮影できませんでした。

舟見城

舟見城への交通アクセスですが、あいの風とやま鉄道の入善駅からタクシーで20分です。
クルマの場合、北陸自動車道の入善スマートICから車で15分くらいになります。
本丸の近くにある舟見山自然公園の無料駐車場まで、登って行けます。

舟見城

登り坂の道路も悪くないので、訪問は便利です。
ただし、舟見城下の道路は、若干、狭いところがありますので、ご注意願います。

行く前から把握していましたが、訪問させて頂いた日は、定休日(火曜日)でしたので、資料館、内部の見学はできませんでした。
あと、冬期(12月15日~3月末)は全面閉鎖されているようなので、ご注意願います。


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猿(サル)が出現すると言う情報もあります。
猿がいた時には、猿の目を見ないようにしてください。
目を見ると、敵対意識を持ち、攻撃してくることがあります。

舟見城址館のすぐ近く、駐車場の脇には、茅葺の建物になっている山の本陣が移築されています。

山の本陣

また、麓にある十三寺にある馬頭観世音菩薩立像など3体の仏像は、平安末期の作で、舟見城主・飛騨守五郎左近尉の守本尊であったと伝わるとの事です。
秘仏になっており、7年に1回、御開扉されるとのことです。

次は、越中・若栗城に向かいました。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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