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多賀城とは
多賀城(たがじょう)は、宮城県多賀城市にある古代城柵で、国の特別史跡に指定されています。
多賀柵とも呼ばれますが、歴史は古く、大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として724年に按察使・大野東人が築城開始しました。
胆沢城は平地に築城していますが、多賀城は丘陵もうまく生かした構造となっています。
その昔は、海水が近くまで入りくんだ状態だったと考えられています。
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762年からは藤原恵美朝狩が更に改修するなど、合計で4回の大改修があったと考えられています。
780年には、蝦夷・伊治呰麻呂の乱で、多賀城は略奪され、一時焼失したようですが、のちに再建されました。
陸奥国府だけでなく鎮守府も置かれ、約900メートル四方という広大な城内の中央には、重要な政務や儀式を行う政庁や寺院があったようです。
802年、坂上田村麻呂が蝦夷討伐を行い、鎮守府が胆沢城(岩手県奥州市胆沢区)へ移ると、多賀城は兵站的機能になったものと考えられています。
869年には巨大地震である貞観地震にて、大きな被害を受けたようです。
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家族の感想を少し入れておきます。
多賀城跡ですが、今は只、広い芝生の丘でした。
周囲も何もなく、ただ時だけが過ぎ、夕暮れがせめりゆく感じです。
下記の多賀城碑(たがじょうひ)は、那須国造碑(栃木県大田原市)、多胡碑(群馬県高崎市)と並ぶ日本三大古碑の1つで、762年12月1日に多賀城の修築記念に建立されたと考えられています。
1333年、新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇の建武の新政にて地方を統治することになり、北畠顕家が陸奥守となりまた。
このとき、父の北畠親房らは、義良親王(後村上天皇)を奉じて多賀城へ赴き、南部政長や、結城宗広、伊達行朝らに協力を呼びかけ、南朝による新政府として陸奥将軍府を多賀城に設置しています。
しかし、足利尊氏が北朝を開いたため、南北朝時代となり、1343年、北畠親房が関城・大宝城の戦いに敗れて吉野に逃れます。
そのあとも、北畠顕信は陸奥に留まっていたため、北朝が1345年に設置した奥州管領と、権力を争いました。
1353年5月、宇津峰城が陥落すると、陸奥将軍府は事実上崩壊し、足利氏の一族らが東北に入りました。
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歌枕の壺碑(つぼのいしぶみ)と呼ばれ、江戸時代には松尾芭蕉が訪れ、対面した感激を奥の細道にも記しています。
場所は多賀城南門の前で、石板の保護の為、江戸時代から覆堂の中に納められており、国の重要文化財に指定されています。
多賀城への行き方
多賀城の観光所要時間ですが、広すぎるので、全体をくまなく見ると2時間は必要です。
クルマで移動しながら政庁部分と石碑部分だと約20分で大丈夫です。
事前に、どこを見学したいか?を決めて、訪問すると、効率も良いでしょう。
多賀城への交通アクセスですが、JR東北本線・国府多賀城駅より政庁跡まで徒歩約10分となります。
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無料駐車場は、東門跡北側に約15台、政庁跡北東側に舗装約20台、政庁跡南側の南北道路階段下に約20台、多賀城南門跡および多賀城碑の近くに6台とあります。
多賀城南門跡(多賀城碑近く)の駐車場には、トイレもあります。
駐車場の場所などは、当方のオリジナル東北地図にてポイントしております。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなります。
自動車用、歩行用でも、ナビとしてお使い頂けます。
この記事は、戦国武将列伝Ωの記事を再編集しました。
・蝦夷・アテルイと坂上田村麻呂の戦い
・文室綿麻呂と都留伎~二戸アイヌ壇の史跡とねぶた祭りの関係
・胆沢城 坂上田村麻呂が築いた蝦夷討伐の拠点
・志波城 大和朝廷の陸奥における最北端・最前線基地
・日本全国のお城マップ(オリジナル)
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