岩手県

人首城 アテルイの弟・大武丸の子である人首丸が籠城?

人首城

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人首城(ひとかべ-じょう)は、岩手県奥州市江刺区米里字荒町にある山城で標高は210m、比高は50mほどになります。
別名は、臥牛城・人首要害とも言い、人首川を下って行くと岩谷堂城となります。

地名を人首と書きますと、なにやら恐ろしいような気も致しますが、ともあれ「ひとかべ」と読みます。
ひとくびではなくてホッと致しますが、人首丸伝説があります。
なんでも、平安時代の801年に坂上田村麻呂が蝦夷討伐に来た際に、阿弖流為(アテルイ)の弟・大武丸(悪路王の弟とも?)の子である人首丸(ひとかべまる)が、この地にて籠城したのに由来するようです。
まぁ、砦のように機能していたのでしょう。
15歳前後の美少年だったとされる人首丸は坂上田村麻呂の娘婿・田原兼光(田原阿波守兼光)に討たれ大森山に祀られたとあります。


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戦国時代に入ると、葛西氏の重臣である岩谷堂城主・江刺重胤の2男が人首城に入って人首如清(安蘇修理、人首国重?)と称しました。
ちなみに、3男は浮牛城に入って、口内隆朝(口内帯刀)と名乗っています。

1590年、小田原攻めを行った豊臣秀吉は、奥州仕置で江刺氏の主家・葛西氏を所領没収にします。
そして、葛西大崎一揆と言う反乱を起こすわけですが、この時の葛西勢に、人首権太夫と言う武将の名があります。

人首城

ただし、大半の江刺氏の一族反乱には加わらなかったようで、宗家・江刺氏は岩谷堂城を退去し、人首城主の人首盛恒(人首平十郎盛恒)も城を明け渡しました。
まぁ、江刺氏じたいの動向がよくわかっていないので、その一族である人首氏も、当然不明瞭なところが多いです。

浅野長政の推挙で、江刺重恒は復活して陸奥・土沢城に入り、南部藩で1500石となりますが、この際に下記のように一族も南部信直に仕官が許されています。

人首平右衛門恒輝は浪人
人首平十郎盛恒は100石。
人首甚太郎恒冨(人首盛恒の子)70石になるものちに没収。
人首平八郎恒茂(人首恒冨の2男)八戸城下に。
口内帯刀隆朝524石で和賀郡毒沢村・黒沢村に。
口内彦次郎重幹(口内帯刀の子)200石で三戸城下に住むも断絶

上記のように、許されておらず浪人した人首平右衛門恒輝は、反乱軍に加わった人首権太夫と同一人物だったのかも知れません。


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ただし、岩谷堂城や上口内城は人首城は伊達政宗の領地となり、伊達藩21要害のひとつとして整備されました。
沼辺重仲(沼辺摂津守重仲)が1000石で人首城主になっています。

盛街道(県道8号)沿いに武家屋敷が並び、人首御番所も設けられたと言い、江戸時代には要害扱いとして徳川幕府に届けられたたろ、人首要害とも言います。
さて、人首城に訪問したのですが、狭い道をクルマで上がって行こうとしましたら、道路工事のようでした。
工事は行われていなかったようですが、道路は鉄板が敷かれており、かなり狭い状態であったため、レンタカーをキズつけては大変なことになりますので、今回は断念しました。
代わりに、遠景だけ撮影しています。

陸奥・土沢城 盛岡藩の重要拠点 十二鏑館はどこに?
浮牛城(上口内城) 大名行列「浮牛城まつり」も開催
岩谷堂城 江刺氏の本拠地


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城迷人たかだ

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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