陸奥・岩崎城(ふたご-じょう)は、岩手県北上市和賀町岩崎にある平山城で標高は100m、比高20mになります。
城郭跡の西側は、岩崎城運動公園として整備されています。
合計3億4000万円かけて建てられた、天守を模している公民館があり史料展示もありますが、東日本大地震で破損したのか現在は立入禁止です。
最初の築城は不明ですが、別名は岩崎楯と呼ばれることから、坂之上田村麻呂が蝦夷討伐の際に砦を築いたことがあるのかも知れません。
まあ、単に岩崎館(たて)を岩崎楯と漢字で書いただけかも知れませんが・・。
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諸説ありますが、和賀郡は鎌倉時代の1224年頃、刈田義季(刈田平右衛門尉義季)が和賀郡の地頭職となり、刈田義季の嫡子・刈田三郎兵衛尉義行の代に下向したともされます。
そして、和賀氏を称するようになりましたが、和賀義行は、嫡男・和賀泰義を和賀郡惣領として岩崎塞に、次男・和賀行時を橘郷、三男・和賀景行は須々孫、また和賀義行の嫡男・和賀泰義は庶子の和賀光義を鬼柳郷に分知して一族を配しました。
なお、尾張・岩崎城、出羽・岩崎城と日本にはいくつも岩崎城があるため、ここでは陸奥・岩崎城として明記させて頂きます。
南北朝時代に、二子城の和賀氏である和賀長義(和賀薩摩守長義)は南朝に味方しましたが、北朝に栗替えすると一族の鬼柳義綱や陸奥・岩崎城の岩崎大炊と共に、北朝に属している須々孫氏を攻撃しています。
なお、1360年、岩崎弥十郎が和賀政義を陸奥・岩崎城に招いて、剣舞を踊って披露したことから、国指定・重要無形民俗文化財になっている「岩崎鬼剣舞」(いわさきおにけんばい)と言う剣舞が伝わります。
この頃、既に岩崎氏がいることから、陸奥・岩崎城の和賀一族は、ほとんど宗家としては機能しておらず、岩崎氏に変わっていたものと推測できます、
そして、和賀氏の宗家は二子城の和賀氏の嫡流の雰囲気となりましたが、その後、苅田氏系から多田氏系に変わるなど、和賀氏の系統は非常に複雑です。
このように一族での争いも絶えないまま、本城は陸奥・二子城として和賀氏は続きました。
1400年代には、和賀義翁の4男が岩崎八郎義縄と称した可能性もあります。
戦国時代になって、1531年に、和賀氏と仙北の小田島氏が戦った際には、岩崎氏も参加しています。
しかし、和賀氏はやがて、北からは南部家の攻撃を受けるようになりました。
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1573年、南部晴政が攻めてきた際には、稗貫郡太田付近で合戦となり、和賀勢が敗れました。
1582年頃の記録ですが和賀分限録に和賀氏家臣の名簿があります。
御会釈座(2家)
黒岩薩摩月斉6500石、小田島主殿守・小田島隼人正下総守2200)
御一門(3家)
和賀治部太夫頼斎(蔵米500石)、和賀主水正忠実(蔵米500石)、和賀長門守春安(蔵米500石)
御一家(2家(
鬼柳伊賀守盛正(蔵米500石)、鬼柳兵庫頭(蔵米500石)
※蔵米と言うのは領地は持たないと言う事かと推測します。
御城持衆(15家)
八重樫播磨守源蔵1900石、都鳥平馬玄蕃1500石、小原左馬介藤次1300石、川原田源蔵1200石、湯沢隼人正1050石、成田藤内800石、煤孫惣助500石、平沢雅楽助460石、根子内蔵介400石、晴山長門400石、工藤主計頭300石、上野長人300石、昆土佐300石、筒井縫殿助300石、梅沢近助200石
平士120名
これら家臣の知行で68011石ですが、本家(当主)や全体の石高は不明です。
また、上記のリストに岩崎氏の名がないことから、陸奥・岩崎城主の座は別の武将になっていた可能性もあります。
とにかく、わからないことが多いです。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、和賀義忠(和賀義治)は使者だけを出して、小田原城に参陣しなかったため、奥州仕置で和賀氏は領地没収となりました。
和賀郡は豊臣家の蔵入地(直轄領)となったため、和賀義忠らは葛西大崎一揆に同調して蜂起し、和賀・稗貫一揆を起こします。
そして、浅野長政の家臣・後藤半七が守備していた二子城を奪還しました。
その後、豊臣家から命を受けた南部信直の雪で撤退を余儀なくされ、鳥谷ヶ崎城(花巻城)の浅野重吉も攻略しています。
このようにうまく行くかと見えましたが、豊臣勢は鎮圧に出ます。
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豊臣秀次、徳川家康、上杉景勝、大谷吉継、前田利家、前田利長、石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らの奥州再仕置軍が奥羽に入ると、蒲生氏郷や浅野長政と合流して一揆を平定しながら北進しました。
和賀義忠は逃走の途中に、落ちの者狩りに遭い、殺害されたもされます。
その後、和賀・稗貫郡は南部家の所領となり、藤五郎と言う家臣が岩崎城に入りましたが、1600年、関ヶ原の戦いとなります。
和賀義忠の子とされる和賀忠親(わが-ただちか)は、伊達政宗の世話を受けていましたが、これを好機とみて、岩崎一揆を起こします。
どうやら、野望がある伊達政宗の密命を受けての蜂起だったよう、陸奥・岩崎城を占領しました。
この時、岩崎義房(岩崎弥右衛門義房)ら岩崎一族も参加しました。
そして、花巻城を夜討ちして急襲しましたが、北信愛や柏山明助、援軍の北信景らの抵抗により、あと一歩のところで陥落させることはできませんでした。
しかし、更に伊達勢の水沢城主・白石宗直に支援を受けると、二子城や大迫城の田中藤四郎を攻略しましたが、戦況が悪化し、城を捨てて飯豊城から、最後には岩崎城に退いています。
陸奥・岩崎城で籠城した武将らは下記の通りのようです。
鬼柳伊賀守、鬼柳清三郎、煤孫下野守、黒岩帯刀(黒岩月斎入道の子)、鴇田信濃守、毒沢伊賀守、安俵小五郎、晴山隼人、晴山茂兵衛、江釣子民部、願念隠岐守、更木主水などである。
従者は筒井縫殿助、、筒井喜助、斎藤久右衛門、斎藤十蔵、八重樫孫十郎、小田島の一族である都鳥氏、河原田氏、小原氏の一党。
その他、根子内蔵助、根子周防守、根子待仲、大迫又三郎、大迫又左衛門、八重畑入道休心斎、その他稗貫家の旧臣や浪人など総勢480騎、雑兵1000。
その後、南部利直ら主力が花巻城に入り、1601年になって岩崎城への攻撃を開始しました。
和賀家と親戚でもある南部勢の柏山明助(かしやま-あきすけ)らが活躍しています。
桜庭直綱らの猛攻にも1ヶ月以上耐えましたが、その間に、岩崎弥右衛門義彦、岩崎将監、小田島周防守、小原蔵人、筒井又十郎等、伊達加勢の鈴木将監、仁井田内膳、志和浪人・山王海太郎らが討死しています。
和賀忠親(和賀又四郎忠親)は、ついに陸奥・岩崎城から脱出して逃走を図りましたが、近臣の蒲田治道、筒井喜助、齋藤十蔵、毒沢義森らとともに自害しました。
徳川家康が和賀忠親に出頭を命じたため、その護送の途中、伊達政宗に暗殺されたとも、伊達家に迷惑を掛けないよう自刃したともされます。
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さて、陸奥・岩崎城のほうですが、和賀・稗貫一揆のあと、南部家によって破却されました。
続いて岩崎一揆の舞台となったあとは、南部信直の譜代老臣・柏山明助(柏山伊勢守明助)が1000石で入り、修復して城主になったようですが、その後の廃城がいつだったのかは不明です。
なお、岩崎氏の一族には、その後、仙台藩士として取り立てられている者もいます。
岩崎弥十郎義高700石、岩崎弥左衛門義昌100石など。
陸奥・岩崎城への交通アクセスですが、当方のオリジナル東北地図にてご確認願います。
今回は、3月末でしたが雪が降り出したため、危険防止のため登城は断念し、麓からの撮影に留めました。
・南部晴政とは~最盛期の南部家へと発展させた有能な武将もそのあとは・・
・南部信直~生き残るための戦略
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・二子城 和賀・稗貫一揆で落城する
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