紀伊・要害山城(堅田城)は和歌山県西牟婁郡白浜町堅田にある標高50mほどの平山城で、土塁囲み単郭の城跡になっています。
そもそも、要害城と言う名称の城跡は日本全国にあります。
しかも紀伊の要害山城(ようがいやま-じょう)としては、同じ白浜町の紀伊富田駅のほうにも同名の紀伊・要害山城があるため、紀伊富田駅のほうを紀伊・要害山城(馬谷城)と区分して、ここでご紹介する白浜駅の裏山にある要害山城は、堅田要害山城と書く場合もありますが、紀伊・要害山城(堅田城)と表記させて頂きます。
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最初の築城は例によって不明ですが、後醍醐天皇が討幕に立ち上がった1330年頃には龍松山城主・山本氏の家臣である堅田善行(堅田式部善行)が城主だったようです。
恐らくは、山本氏の一族であり、熊野別当の子孫と考えられる堅田式部大夫善行は1343年没したと言います。
その後、日置の紀伊・安宅本城などの安宅氏が勢力を拡大し、安宅氏の家臣・北金右衛門の甥とされる福田良左衛門(福田丹左衛門)が紀伊・要害山城(堅田城)に入りました。
ちなみに、安宅氏は、山本氏に対抗するため、紀伊富田駅のほうの紀伊・要害山城(馬谷城)を築いたと言う事になります。
ただし、抗争はあったものの安宅氏も山本氏も戦国時代まで残っており、山本氏は1585年、豊臣秀吉の紀州征伐を受けると降伏しました。
安宅氏は、もともと四国から紀伊水道をまたいで四国・淡路島一帯も支配地があったことから、熊野水軍も戦国期には洲本城を本拠としています。
紀伊・要害山城(堅田城)への交通アクセスですが、紀勢本線のJR白浜駅近くに、1時間無料の駐車場があります。
今回、遠景の写真は、その駐車場にクルマを止めさせて頂いて撮影致しました。
しかし、ご覧の通り、もう日も落ちてしまいましたので、登城は断念しています。
もちろん、白浜駅からはそんなに遠くはありませんが、整備はされていないようで、基本的にはヤブのようです。
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これでこの日の城攻めはおしまいにして、南紀白浜の南紀白浜のとれとれ市場で、刺身などの夕食を頂きました。
夕方には、食堂の刺身が「半額」になっておりまして、ご飯・味噌汁(200円セット)をつけても、1050円でたらふく頂けました。
そして、ホテルハーヴェスト南紀田辺に宿泊致し、翌日、最初には円月島へ向かいました。
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