和歌山県

紀伊・入山城 青木一矩が出世した南紀の城跡

紀伊・入山城




紀伊・入山城(にゅうやまじょう)は和歌山県日高郡美浜町和田にある標高75m前後の丘城です。
すぐ南側にある標高35mほどの峰も同じく紀伊・入山城と呼ばれますが、南側を本丸、北側の最高所を城山として区分するのが一般的なようです。

紀伊・入山城の本丸(南側)は、青木由定(青木勘兵衛由定)が築いたとされます。
この青木由定と言う武将、詳しく知られていない武将ですが、豊臣勢と言う事です。
となると、同じく紀州征伐に加わっており、この付近にも進軍していた青木一矩(あおき-かずのり)の一族とも考えられます。
青木家は、豊臣秀吉の生母・大政所の妹の嫁ぎ先とされる豊臣一門です。





青木由定は紀州攻めでの戦功を認められて、紀伊・入山城主となったのでしょう。
ただし、豊臣一門の青木一矩と言う武将は、何度も名前を変えたのか、青木秀以、青木重吉、青木秀政、青木重治、羽柴秀以、青木勘兵衛、青木勘七、青木紀伊守など色々な名前が残っています。
でましたね。
青木勘兵衛と称してもいますので、入山城を与えられた青木由定(青木勘兵衛由定)は、青木一矩と同一人物とみてよいでしょう。

下記は本丸と呼ばれる方の、南側の紀伊・入山城(本丸)です。

紀伊・入山城(本丸)

青木一矩(青木由定)は、湯川直春と戦ったあと、すぐに遠征した四国攻めでの功績で、1000石から一気に1万石に加増を受けて、城持ちになりました。
しかし、長く南紀にいたわけではなく、1587年頃には、越前・大野城に移っています。

下記は城山と呼ばれる方の紀伊・入山城(北側)です。

紀伊・入山城(城山)

一方で、紀伊・入山城の城山(北側の高所)は、1522年秋、紀伊守護・畠山高国の留守を突いて阿波の三好義長が由良に上陸して、小坊子城(小坊師ヶ峰城)を築きました。
このとき、支城として入山城を築いとされます。
ただし、冬には畠山高国が湯川政春と三好勢を駆逐し、すぐ近くにある紀伊・亀山城の湯川氏の支城になりました。
ここでまた難解なのが、三好義長なる武将です。
当然、阿波の三好一族の武将と考えられますが、この頃、阿波の三好家では三好元長が頭領でした。
でも、三好家に三好義長と言う武将は見当たりません。
三好勢と戦った畠山高国じたいも、1351年に没している南北朝時代の武将ですので、200年も年代が合わないのです。
よって、三好義長が入山城に関与していたと言う裏付けはとれませんが、まぁ、湯川氏が支城として一族を配していたのは間違えないでしょう。

紀伊・入山城

紀伊・入山城の城山への登城口にある三宝寺は、湯川氏の菩提寺となっています。
そして、青木一矩が入った際に、城域が拡張・整備されて、本丸とされる低い部分まで拡大したとみて良いのではと存じます。

西側にある美浜公民館入山分館の前に案内板があり、若干の駐車スペースもあります。
ただし、城跡はあまり整備されていないとの情報でしたので、登城は控えました。

紀伊・入山城

いずれにせよ、青木一矩が越前・北ノ庄城で21万石に出世するキッカケになった歴史ある城であることは間違いありません。
徳川家康の側室になった青木一矩の娘・お梅の方は、この紀伊・入山城にて生まれたとも考えられます。
なお、お梅の方は、のちに本多正純の継室となりましたが、江戸時代の1622年に本多正純は、出羽・横手城にて謹慎となったため、お梅の方も時代に翻弄された人生となったようです。

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城迷人たかだ

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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