陸奥・大湯館(大湯館城)とは
陸奥・大湯館は、秋田県鹿角市にある平山城で、別名は和町館・大湯新城・大湯館城とも言います。
奥州・藤原氏が滅んだあと、鎌倉時代に武蔵七党の横山党・成田氏の一族が、移住して大湯氏を称したとされます。
鹿角四頭と呼ばれた成田氏・阿保氏・奈良氏・秋元氏がおり、その奈良氏の一族が大湯氏と名乗ったと考えられますが、奈良氏は武蔵七党の横山党の出身であり、恐らくは成田氏から養子に入ったなどの婚姻関係があったものと推測致します。
1189年、源頼朝の奥州征伐の際に、成田助綱(成田七郎助綱)が功績を挙げたようで、恩賞として大湯の領地を与えられたのでしょう。
いつ頃、どの成田氏が大湯館に入ったのかは不明ですが、鎌倉幕府が滅んだ際に、成田氏も滅亡しています。
その後、武蔵七党・丹党の安保氏の庶流が、成田氏を称して、やがて武蔵・忍城にて勢力を拡大します。
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一方、鹿角地方は南部氏と安東氏の争いとなり、大湯氏はだいたい南部氏に味方しました。
戦国時代の1558年には、安東愛季の誘いに応じて、安東家からの使者・大高筑前とあったと言う記録があります。
しかし、1589年、南部信直が大館城を攻めた際には、南部家の先鋒を大湯昌次(大湯四郎左衛門)が務めました。
こうして大湯館城主・大湯昌光(大湯五兵衛)は南部信直に仕え、毛馬内氏などと婚姻関係も結びました。
1591年、九戸政実が南部信直に対して反乱(九戸政実の乱)を起こすと、豊臣秀吉の奥州仕置きの直後で不満もあり、大湯氏の一族は敵味方に分かれます。
兄とされる大湯昌忠は、南部信直に従って九戸城を包囲しました。
しかし、弟とされる大湯昌次は、同郷の大里親治(大里修理大夫親治)と九戸政実に味方して、大湯館で籠城したようです。
九戸城が7万の豊臣勢によって陥落し、陸奥・花輪館(鹿角の花輪城)主・大光寺正親によって大湯館は包囲されて、大湯昌次(大湯四郎左衛門)は捕らえられる、他の反乱者と共にて栗原郡三迫(宮城県栗原市)にて処刑されました。
大湯昌次の子である大湯昌到と大湯昌吉は、津軽為信を頼って逃れて、津軽家の家臣(200石)になっています。
大湯昌忠は、加増を受けて2000石となっていますが、のち断絶し、大湯代官には毛馬内靭負範氏が入り、赤尾又兵衛と続いていますが、大湯館は、そのまま代官所として使われていたようです。
すぐ近くにある大湯温泉は、古くから湯治場として有名で、南部藩主も大湯館に湯治に度々訪れたそうです。
また、縄文時代のストーンサークル(大湯環状列石)が有名です
JR花輪線の十和田湖南駅からバスで20分ほど、大湯温泉郷の清姫神社わきから登城口があります。
ただし、そこまでの道は、クルマが1台通れる細い道で、途中、すれ違いも困難です。
大湯城は連郭館となっていて、それぞれが独立して分かれているため、全部の城域はなかなか広いです。
今回は本降りの雨でして、足元が悪かったため、探索は断念しています。
ここに来る前には十和田湖に寄っています。
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