払田柵(ほったのさく)は、秋田県大仙市付近、あきたこまち米の主産地である仙北平野にある平安時代の古代城柵遺跡で、国の史跡に指定されています。
古代城柵と言うのは、仙台の多賀城、秋田城跡にある出羽柵と共に、平安時代の初め頃に、大和朝廷が蝦夷討伐のため造営した大規模な拠点で、役所と軍事、儀式の役割を持っていたとされる城跡・遺跡です。
文献などには出てこない払田柵ですが、最初は1902年(明治35年)頃に、水田から200本余の柵木が発見されました。
しかし、当時はなんだかよく分からなかったため、その木材は薪にして燃やしたり、下駄の材料にしたりしたそうです。
でも、遺跡だと言う事で1930年に本格的な発掘調査が行われました。
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払田柵跡は、発掘調査から周囲を材木塀で囲んだと楕円形と判明していますが、その外周は約3600mにも及びます。
多賀城を訪問した際には、とても大きいなと感じましたが、その多賀城よりも大きいのです。
坂上田村麻呂らが征夷した際に、陸奥国にて胆沢城、徳丹城、志波城を築いた頃と、ほぼ同じ年代だとわかってきています。
復元された外柵南門は高さ9.7mと大きいものです。
なお、760年に、陸奥鎮守将軍・藤原朝狩が、蝦夷(えみち)を無血降伏させて築城したとされる雄勝城(おかちじょう)が、この仙北の地にあると記録があります。
所轄郡司、軍毅、鎮所の兵士、馬子ら8180人が春から秋にかけて造営し、776年には約4000の軍勢が駐屯したとあります。
そのような記録は881年まで見受けられますが、その雄勝城が、どこにあったのかが、わかっていません。
文献に明確な記述がなく「無名不文の遺跡」とも言われているくらいです。
また、雄勝城より前に、小勝城が先に作られて、雄勝城に移転したと言う可能性もあるそうです。
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払田柵から出土した柵木の年輪年代法による分析結果では801年頃の伐採と若干年代が異なるそうで、謎も多いですが、まぁ同じ奈良時代ですし、払田柵跡付近が雄勝城であったと考えて良いのではないかと存じます。
ちなみに、712年頃から造営された出羽柵は現在の秋田城跡であったとわかっています。
払田柵跡への交通アクセスですが、無料駐車場が完備されています。
当方のオリジナル東北地図にてわかるようにしておきます。
近くには、旧池田氏庭園払田分家庭園(堀田城)もあり、秋には紅葉の名所として親しまれているようです。
・出羽・堀田城 旧池田氏庭園(払田分家庭園)
・志波城 大和朝廷の陸奥における最北端・最前線基地
・徳丹城 文室綿麻呂の蝦夷討伐完了
・5分でわかる坂上田村麻呂とは
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