越後・琵琶島城(びわじまじょう)は、新潟県柏崎市にある平城で、鵜川が大きく蛇行して形成された中洲のような場所で、で支流にも挟まれた川の脇にあります。
また、戦国時代に、鵜川の周りは、湿地帯であったも推測されているようで、防衛には適した地だった模様です。
特に、柏崎湊が近いことからも、舟運が利用できた城で、軍事的にも経済的にも非常に重要な城であったと言われます。
なお、野尻湖のところにも、琵琶島城がありますが、野尻湖は信濃・琵琶島城として区別させて頂きます。
最初の築城は不明ですが、伊豆・宇佐美荘(宇佐美)を本貫とする工藤祐茂(宇佐美祐茂)の宇佐美氏が、南北朝時代のはじめの頃に、越後守護職になった上杉憲顕に従って、越後に入りました。
そして、越後有数の規模である柏崎湊を所領としたようで、宇佐美城とも枇杷島城とも呼ばれます。
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上杉家の中で長尾氏が台頭してくると、宇佐美氏は常に上杉家に味方していますが、これは昔からの主従関係を重んじていたからと推測できます。
そして、宇佐美定満(宇佐美定行)は、上杉家の軍師として活躍しました。
1535年、上杉定実の弟で上条城の上条定憲に協力すると、上条上杉家の再興を目指して、上杉定実・長尾為景と戦っています。
しかし、1536年、春日山城下で敗れただけでなく、上条定憲が死去した可能性があり、宇佐美定満(36歳)は長尾為景に降伏したと考えられます。
ただし、その長尾為景を同じ年に隠居へ追い込みました。
そのあと、宇佐美定満は長尾晴景に仕えています。
その後、1548年に長尾晴景が隠居すると、あとを継いだ長尾景虎(のちの上杉謙信)に仕えることになります。
宇佐美定行は上杉謙信の参謀として、上杉25五将の1人に数えられ、武田信玄との第4次川中島の戦いで、山本勘助の啄木鳥戦法を見破ったのも宇佐美定行とされます。
宇佐美定満は「琵琶島殿」(びわ嶋殿)と名前があり、上杉家の外様・譜代衆の中で、中条藤資、本荘繁長、本荘秀綱、石川重次、色部勝長、千坂景親、長尾政景、斎藤朝信、安田顕元?、長尾藤景、柿崎景家の次となる12番目の序列となっていました。(披露太刀之衆)
高齢を理由に隠居すると、子の宇佐美定勝が家督を継いだと考えられています。
そして、有名なのが野尻池事件となります。
宇佐美定満は、永禄7年(1564年)、謀反の疑いがあった長尾政景と共に、越後・坂戸城近くにある「野尻池」にて溺死しました。
この事で宇佐美氏は没落しています。
そのため、琵琶島城には前島修理亮が入っています。
この前島修理亮は、御館の乱にて、上杉景虎(北条三郎)に味方しました。
上杉景勝は、琵琶島城近くの旗持城主・佐野清左衛門尉宛てに、琵琶島城への警戒と琵琶島城から御館への兵糧輸送の阻止を明示、更には琵琶島城を調略するようにと指示しています。
実際に、琵琶島城からは物資が御館へ運ばれようとしましたが、佐野清左衛門尉が攻撃して阻止しており、琵琶島城は降伏・開城しました。
そのあとには、上田長尾家の家臣・桐沢具繁が入城し、在城料として、乱で没落した越後・北条家の所領(柏崎市北条)を与えられています。
現在、琵琶島城の遺構はほとんど失われており、柏崎総合高校が本丸跡とされます。
下記のような案内図もありますので、見学は許されていますが、生徒さんに迷惑を掛けないよう静かにマナーを守って見学したいところです。
なお、宇佐美定満が溺死した野尻湖にある野尻城も、信濃・琵琶島城とも呼ばれているため、混同に注意が必要です。
交通アクセスですが、JR信越本線・越後線「柏崎駅」から徒歩20分となります。
なお、琵琶島城の石碑は高校の敷地内にあります。
しかし、琵琶島城跡はこちらと言うように案内板もあり、立入しても大丈夫なようです。
さすがに、駐車する場合には、きちんと許可をもらった方が良いでしょうが、道路じたいも、高校の中を貫通していますので、通り抜けもできるようになっており、通行がてら撮影させて頂きました。
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