鮫ヶ尾城とは
越後・鮫ヶ尾城(さめがおじょう)は続日本100名城にも選ばれた、新潟県妙高市の連郭式山城で、国の史跡にもなっています。
近くにある上杉家の本拠地「春日山城」を防衛する重要な支城として整備された模様ですが、築城時期や歴代城主は不明です。
1578年、上杉謙信の死後、越後を二分する大戦乱となった「御館の乱」のとき、鮫ヶ尾城主は堀江宗親でした。
堀江宗親(ほりえ-むねちか)は、1577年、当時は加賀・津幡城主として最前線を担っていました。
上杉謙信亡きあとは、上杉景虎(北条三郎)の擁立に加わりし、御館の乱となると、1000の軍勢を率いて御館に入って上杉景勝と戦っています。
御館が陥落したあと、上杉景虎とその家族が小田原城の兄・北条氏政のもとに戻るため、唯一支配していた鮫ヶ尾城に入り、堀江宗親は一行を保護します。
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しかし、堀江宗親は、上杉景虎の入城時には既に、上杉景勝勢の安田顕元に内通していたのです。
上杉景虎らが入った、鮫ヶ尾城の二の丸に火を放ち、上杉景勝の総攻撃によって、上杉景虎は、妻子共々自刃しました。
なお、実際には上杉景虎派の武将が、その後も1年程度抵抗を続けています。
堀江宗親は、御館の乱のあと領地没収になったと記録がありますが、その後、消息などは不明です。
没収された所領は、安田城主・安田顕元に与えています。
現在も米蔵跡からは「御館の乱」の際に焼けたと考えられる、米『焼き米』(おにぎり形をした炭化米の塊)が出土しますが、国の史跡で文化財指定されている為、許可のない発掘は禁止です。
東登城路を通行していくと斐太遺跡(矢代山B地区)に出ると言います。
環濠(内堀)跡は説明板から手前10mほど東登城路を下りるとあります。
そして、本丸方面へ進むと大堀切6、大堀切5、東一の丸、堀切6、本丸となるようですが、今回は、高温注意報が出ている猛暑と言う事もあり、朝3時出発した体調面など考慮して登城は控えました。
できれば、秋口くらいに登ってみたいものです。
鮫ヶ尾城の麓には古墳時代や弥生時代の遺跡「斐太遺跡」や「観音平・天神堂古墳群」などがあります。
また「斐太歴史の里」の史跡公園に駐車場があり、案内所の裏から続く遊歩道にて登城することになります。
本丸まで歩いて約20分~30分となり模様です。
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なお、麓の勝福寺には、上杉景虎の慰霊碑と石碑があると言います。
交通アクセス
交通アクセスですが、電車の場合、JR信越本線の北新井駅にて下車し、徒歩30分で登城口です。
クルマの場合、斐太神社の横にある広い駐車場が利用できます。
私はスタンプやっていませんが、続・百名城のスタンプは、妙高市斐太県民休養地管理棟(総合案内所)に設置されているようです。
城跡散策のパンフレットももらえます。
なお、上杉景虎の悲劇をモチーフとした小説『炎のミラージュ』の影響で、女性ファンも鮫ヶ尾城跡を訪問なさっている模様です。
熊除け、虫除け、マムシ除けなど、準備は万全でお願いしたいと思います。
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堀江宗近 興味深く拝見し、為になりました。
景虎自刃後のも一年余りも抵抗を続けていたとのことでしたが、初めて知りましたが驚きを持って拝見しました、
援軍の当てもないと思われる状況の中でどのように戦えたのでしょうか。兵站はどのようにして。
また、どのような武将だったのでしょうか、武将の名前はお分かりになりますか。
教えて頂けると有り難いです。