備前・周匝茶臼山城(ちゃうすやまじょう)は、岡山県赤磐市周匝にある連郭式山城で標高172m、比高い110mとなります。
周匝は「すさい」と読みます。
他にも岡山県や広島県あたりは茶臼山城と同名の城があることから、ここでは周匝茶臼山城と表現させて頂きます。
浦上宗景の本拠地である備前・天神山城から約7kmくらいしか離れていないことから、支城的役割を果たしたものと存じます。
周匝茶臼山城の築城時期は不明ですが、戦国時代の天文年間(1532年~1555年)の最初に頃とされています。
安芸国より移り住み浦上宗景に従っていた笹部勘次郎(ささべ-かんじろう)が城主でした。
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茶臼山城は吉井川の本流と吉野川の合流地点にあり、相当な防御力のある山城で、比較的に良好な遺構が残っているそうです。
なお、峰続きで隣接するように北西300mの場所に大仙山城があります。
最近では、大仙山城が本城だったとする説もあるようですが、恐らくは、一対の城であったものと感じます。
1574年ころから、浦上宗景と家臣の宇喜多直家の対立が激化し、浦上宗景が城を捨てる頃には、浦上家の家臣らは宇喜多家に従いました。
その後、周匝茶臼山城は近くの延原景能と境界線の争いが生じます。
笹部勘次郎(笹部勘斎由)は鷺山城主・星賀光重に援軍を要請して延原景能を一時敗走させました。
しかし、三星城の後藤勝基が、宇喜多直家に反対する勢力を集めたため、笹部勘次郎は後藤家に味方しました。
これに対して延原景能は宇喜多直家に援軍要請し、1579年、延原景能と花房織秀らによって周匝茶臼山城は猛攻を受けて落城し、笹部勘次郎(笹部勘斎)と子の笹部仙千代は討死しました。
城の裏手にある一の谷で討たれたとあります。
また、三星城主・後藤勝元や飯岡城主・星賀藤内らも討伐されています。
その後、宇喜多領になったと考えられますが、本能寺の変のあと、毛利家と羽柴家が和睦したあと、1584年なは毛利元清(穂井田元清)が茶臼山に入って政治を行ったと記載されている場合もあります。
ただし、これは、備前のこの周匝茶臼山ではなく、備中の矢掛茶臼山城のことだと存じますので、混同されてしまっているように感じます。
江戸時代になると、岡山城にて成立した備前池田藩より、一族で家老の池田伊賀守(片桐池田家・池田長明)が22000石にて周匝を与えられて、麓に周匝陣屋を構えました。
周匝陣屋跡などもあるようです。
今回予定外で、たまたま三星城から国道374号を南下していたところ、通りがかりに遠景だけ撮影致しました。
写真にも、小さく写っていますが、山頂には模擬天守があるようです。
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ということは、山頂近くまで、車で上がれるものと推測致します。
調べてみますと、なかなかおもしろそうなやましめですので、また訪問したいと存じます。
・浦上宗景 美作・備中に覇をとなえるも宇喜多家により・・
・備前・天神山城 浦上宗景の本拠地
・三星城 後藤勝基と三星城の戦い
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