庭瀬城(にわせじょう)は、岡山県岡山市北区庭瀬822にある平城で、庭瀬陣屋(にわせじんや)とも言います。
別名は付近の地名から芝場城とも呼ばれます。
戦国時代までは隣接する撫川城と一体の城として使われていました。
撫川城が本丸で、庭瀬城が二の丸と言う感じで、江戸時代に入るとそれぞれ、違う武家が城に入ったと言う、なかなか珍しい状況になった城跡です。
また、戦国時代までの歴史は、撫川城と同じですが、念の為記載致します。
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最初の築城は定かではありませんが、平安時代後期となる寛治年間(1087年~1094年)に、吉備津神社の祠官・藤井久任(ふじい-ひさとう)が築城したと伝わります。
また、平清盛の重臣・妹尾兼康(せのお-かねやす、妹尾太郎兼康)の一族が居城したともあります。
撫川城(庭瀬城)は泥沼の地に築かれたた沼城で、戦国時代となり、備中・高松城を手に入れて備中の大半を支配した三村家親が、台頭してきた宇喜多直家に備えるため、1559年に大改修したようです。
備中兵乱で毛利家と宇喜多家が同盟し三村家が滅ぶと、撫川城には毛利家より、上山兵庫介、植民部大輔などが在城しました。
織田勢の侵攻に備えて「境目七城」(宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・撫川城)のひとつとなり、整備されたようです。
羽柴秀吉の備中・高松城攻めの際には、井上有影(井上豊後守有景、井上有景、いのうえ-ありかげ)が、800にて籠城していたとされます。
沼地で備中・高松城にも似た状態だったことから、羽柴勢の攻撃にも屈しませんでした。
しかし、孤立することなり、吉川元春・小早川隆景は城を捨てて退去するようにと通達しましたが、それでも、井上有景は城に残り和睦まで抵抗を続けたと言います。
そのあとは、宇喜多家の所領となり、天正十四年(1586年)に、岡利勝が撫川城(庭瀬城)の改修を行い、このときの野面積みの石垣が西側の本丸跡に残っています。
下記は大手門跡となる入口です。
岡利勝は、宇喜多氏の重臣で政務を取り仕切った岡豊前守(岡家利)の子と考えられます。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで宇喜多秀家は改易(所領没収)となり、1599年の宇喜多騒動で出奔していた戸川達安が、備中国都宇郡と賀陽郡に2万9200石を与えられ、庭瀬城跡を改修して陣屋を置きました。
戸川達安は、石田三成の重臣・島清興を討ち取ったとする説もある武功を挙げています。
ただし、庭瀬城は使われても、撫川城のほうは使われなかった?可能性もあります。
しかし、江戸時代の1679年、庭瀬藩4代藩主の戸川安風が僅か9歳で早世し、断絶します。
そのため、戸川家は無嗣断絶で改易となりましたが、その名跡は弟・戸川達富が5000石にて、交代寄合旗本となり、家名だけは残しました。
この5000石になった戸川達富の戸川撫川知行所が置かれたのは、撫川城跡となり、撫川陣屋と呼ばれました。
一方で、庭瀬藩の他の領地は天領となったため、代官所が庭瀬城(庭瀬陣屋)に置かれました。
そして、1669年には、庭瀬藩主として2万石で板倉氏が入封し、庭瀬陣屋を整備して使用しました。
そのため、戦国時代にはひとつの城であったココには、旗本の撫川城(撫川陣屋)と、大名の庭瀬城(庭瀬陣屋)と2つの城として認知される次第です。
庭瀬城(庭瀬陣屋)は二の丸を政庁として、表御門を入ると「家中屋敷」「番所」「中屋敷」「御蔵」「作業場」「馬屋」、そして家屋6軒からなる「御殿」があり、それ以外には「勤番部屋」「馬場」などがあったと言います。
そして陣屋と鴨方往来の周辺に陣屋町が形成されました。
一帯は現在でも堀跡でもある水路が張り巡らされ、地図で見ますと、城域がよくわかります。
ただし、昔のままですので、道も狭いです。
庭瀬城の水堀には、大賀一郎博士が発見した2000年の古代ハスである「大賀ハス」が毎年、花を咲かせると言いますが、年に数日間だけ花が咲くものです。
JR山陽本線、伯備線「庭瀬駅」下車徒歩5分です。
庭瀬城の入口付近に駐車スペース(無料駐車場)もあるなど、庭瀬城址公園として整備されており訪問しやすく素晴らしいです。
もちろん、すぐ近くの撫川城とセットでどうぞ。
・撫川城 かつての水路や水濠が残っている沼城
・三村家親 備中をほぼ統一するも短筒にて暗殺された大名
・日幡城 羽柴勢に奪われるも奪還した毛利家の意地
・冠山城 備中高松城攻めの前哨戦で全滅した城
・小早川隆景【詳細版】~毛利家大きく支えた智将
・山陽・山陰の史跡や城跡めぐりに便利な地図
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