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尾張・木田城とは
木田城(きだ-じょう)は鎌倉時代末期に一色左馬之助が築いたとされ、その後、吉川城主である花井氏が移り住んできたとの伝承があります。
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その立地を見ると、知多半島の北部に位置する東海市の中でも標高36mと一番高い丘陵一帯が城郭だったと考えられており、東側には知多半島を南北に走る半田街道に加えて東の三河方面へと延びる街道に加え、西側は伊勢湾に面しており交通の要所にあったと思われます。
歴史
戦国時代に入ると、室町幕府の奉公衆で知多半島北西部にある荒尾村一帯の地頭である荒尾氏が入城。その後、織田氏と今川氏の争いが激化する中、天文20年(1551年)織田信秀(おだ-のぶひで)が死去します。
東三河の松平氏を支配下に治めた今川義元(いまがわ-よしもと)は刈谷城(かりや-じょう)から4km程離れた重原城(しげはら-じょう)を攻略し、知多の寺本城や津島の服部党なども傘下に収め、西三河から知多半島一帯に力を持つ水野信元(みずの-のぶもと)の主城で、織田方の知多半島最後の砦ともいえる緒川城(おがわ-じょう)の北側に村木砦を築き、十八松平家の一つである東条松平家当主の松平義春(まつだいら-よしはる)を守将に据えて圧力をかけてきました。
緒川城からの急報を受けた織田信長(おだ-のぶなが)は、美濃の斎藤道三(さいとう-どうさん)からの援軍を受け、緒川城救援に向けて軍を進めようとしますが、陸路はすでに今川勢によって封鎖されていたため、伊吹おろしで荒れる伊勢湾を渡るしか方法はありません。
伝承の一つには源義経が屋島に渡る際に暴風雨の中、船に逆櫓を付けた故事を持ち出して荒れ狂う海に船を出そうとしない船頭達を説得し、熱田湊から知多半島西岸にある木田城へと兵を率いて渡りました。
当時の木田城主は、一帯の七ヶ村を支配する地頭の荒尾空善と呼ばれる人物であり、室町幕府の奉公衆を務めていました。
織田信長は木田城一帯に密かに軍勢を集めた後で知多半島を南下し、佐布里城の近辺から一気に東に向けて進軍し、警戒していた村木砦とは逆の緒川城南方から入城したと言われています。
突如として現れた援軍に驚愕した水野信元でしたが、村木砦の西側の海上を封鎖し、織田軍と共に村木砦急襲。防御の固い南側を受け持った織田信長は、まだ一般にはあまり知られていない鉄砲隊を率いて間断なく弾丸を放ち、轟音と弾丸によって怯んだ今川軍を攻め立てていきます。
間断なく攻め立てられ死傷者も増加していった今川軍は降伏をし、村木砦を放棄して三河へと撤兵したと伝わります。
一時は撤退した今川軍でしたが、尾張侵攻の手は緩めず荒尾空善は戦死します。荒尾空善には男子がいなかったため、跡目を継いだのは荒尾善次(あらお-よしつぐ)で、知多大野城の佐治氏から婿養子として入った人物でした。
後に荒尾善次の兄である佐治信方(さじ-のぶかた)の正室に織田信長は妹のお犬の方を娶せて血縁関係を結び、さらには荒尾善次の娘と弟の織田信時(おだ-のぶとき)との婚姻を決め、知多半島一帯に血縁関係を広めていきました。
後に織田信時が死去すると、彼女は織田信長の命により池田恒興に再嫁する事になり、池田元助(いけだ-もとすけ)、池田輝政(いけだ-てるまさ)、池田長吉(いけだ-ながよし)、池田長政(いけだ-ながまさ)の4人の男子をもうけ、後に善応院と呼ばれています。
元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いで荒尾善久が戦死します。
荒尾善久は、善応院の兄であり隠居した荒尾善次の跡を継いで木田城主になっていましたが、子供がいなかったため、善応院の次男で当時10歳の古新丸(後の池田輝政)が織田信長の命によって木田小太郎として木田城に入ります。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで池田恒興と池田元助が討ち死にすると、池田輝政が池田家を継ぐことになったため、木田城は城主不在となり廃城となりました。
善応院の弟である荒尾成房(あらお-なりふさ)は甥の池田長吉が鳥取藩主となると鳥取藩の家老となり、外戚として信頼され米子城代も務めています。
また、池田輝政や池田長吉の妹(生母不明)を娶った山崎家盛(やまざき-いえもり)は豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)の死後、領国の摂津国三田で石田三成(いしだ-みつなり)の挙兵を聴き、上杉征伐に向かった徳川家康(とくがわ-いえやす)に急使を走らせるものの、石田三成の催促を受けて西軍に参加し、細川幽斎(ほそかわ-ゆうさい)が守る丹後田辺城攻めに西軍として参加しますが、攻城軍には細川幽斎との交流があった武将が多く、積極的に攻撃に参加する将兵は少なかったため、にらみ合いの状況が続き、後陽成天皇の勅命によって田辺城が講和開城したのは関ヶ原合戦の2日前でした。
戦後、敗軍の将となった山崎家盛ですが、徳川家康に急使を走らせた功績と、義兄の池田輝政が東軍に参加していた事もあって所領は安堵され、後に加増の上、因幡国若桜へ転封されて3万石の藩主となりました。
山崎家盛が死去すると妻は出家して天球院と名乗り、隣接する鳥取藩主で義兄の池田長吉を頼り、鳥取城の一角に居住していた郭は天球丸と名付けられ、江戸時代後期には石垣のたわみを防ぐため巻石垣で補強されて現在でも鳥取城の見どころの一つとなっています。
三好青海入道の伝説
木田城跡の西側300m程の所に観福寺と言う古刹があります。
開山は天宝2年(702年)行基によるものと言われており、一旦は衰退したものの、宝徳2年(1450年)に復興されます。
村木砦の戦いの際に、木田城に入り切れなかった織田信長配下の将兵達は寺内で休息を取ったと言われています。
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この観福寺には池田輝政(いけだ-てるまさ)配下の深谷助左衛門という怪力男の伝説が伝わっています。
境内にある『三好青海入道絵伝』によると、深谷助左衛門は観福寺の本尊に祈願して千人力の怪力を得ましたが、歩くだけで地響きが起こるために百人力に下げてもらい、三好青海入道(みよし-せいかい)と名乗って池田輝政の配下として戦場に出て、三十六貫の鉄棒を振り回して活躍した後、年老いてから生まれ故郷の木田に帰納して、観福寺に鎧兜を奉納し、その兜を頭に乗せると夏病をしないと言われています。
交通アクセスと登城
推奨ルート:
公共交通機関で訪問する場合、名古屋鉄道の太田川駅から徒歩約20分。
自家用車での訪問は天尾神社の脇に駐車スペースがあるので、そちらを利用させて頂く事になります。
天尾神社→(徒歩10分)→観福寺
愛知県中世城館跡調査報告Ⅳによると、木田城は天尾神社の西側崖下一帯が城跡とされてきましたが、近年東海市教育委員会によって建てられた看板には天尾神社一帯が本郭ではないかと言う事が記されており、2019年に行われた木田城の東側一帯に隣接する北広遺跡の発掘調査では古くからの遺構が出ていることから、山麓一帯が城跡だったとしても不思議ではないと思われます。
天尾神社西側は崖になっており、崖下を利用した堀跡も残されていますが、個人宅の敷地になっているため見学は難しいようです。
天尾神社の脇道を北に進み木田福祉会館の前を西に回り込むと城之腰の信号交差点に出ます。
この城之腰交差点南東一帯の民間宅地が従来の木田城跡とされた地になりますが、個人宅のため立ち入りはできません。
城之腰交差点を西に進むと小高い地の上に観福寺が建てられています。
境内には前述した『三好青海入道絵伝』が掲げられており、武具も丁寧に展示されています。
一帯の字名は山屋敷となっており、南側には会下前(※)と言う字名もある事から、古来より人の集まる地であった事が伺えます。
※会下(えげ)とは、禅宗や浄土宗などで師の僧侶の元で修行する場所や、人の集まる所で僧侶が辻説法をした地に付けられる事が多い地名で、古来より多くの人が集っていた地である事が伺えます。
その他関連施設等
・天尾神社
東海市大田町清水脇37
・観福寺
東海市大田町天神下ノ上5
・運得寺
東海市荒尾町西屋敷89
荒尾氏の菩提寺で、荒尾小太郎の墓所等がありましたが、戦火に会い伽藍と共に焼失。
境内に宝篋印塔が残されているのみとなっています。
・渡内八幡社
東海市荒尾町泉6
深谷氏の氏社と言われており、この近くで深谷助左衛門(三好青海)は産まれたと言われています。
(寄稿)だい
・どうする家康の舞台「岡崎城」下を巡る~築山殿と岡崎信康の首塚
・村木砦の解説「信長鉄砲隊初出陣」村木砦の戦い
・当サイトで紹介中「日本全国のお城・オリジナル地図」
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