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尾張・楽田城とは
楽田城(がくでん-じょう)は尾張国二宮である大縣神社(おおあがた-じんじゃ)の山麓に位置し、清州と木曽を結ぶ街道沿いに建てられた平城です。
大縣神社の創建は不明ですが、社伝には「垂仁天皇27年に本宮山の山頂から現在地に移転した」とあるため、西暦300年頃には現在の地にあったと考えられています。
近隣には尾張王権の力を示すような多くの古墳が残されており、中でも楽田城から西に2km程に位置し、愛知県下で2番目の大きさを誇る青塚古墳は大縣神社の御祭神である神裔大荒田命(おおあらたのみこと)の墳墓であると伝えられています。
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小牧長久手の戦いの際には、豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)方の有力武将の一人である森長可(もり-ながよし)が古墳の上に陣を構えて、周囲を掘削して堀を巡らせたと伝わっています。
また、南方約kmに位置する徳川家康(とくがわ-いえやす)が入城した小牧山城が一望できる事からも、豊臣方の重要拠点の一つとなっていました。
歴史
楽田城は永正元年(1504年)尾張守護代であった織田久長(おだ-ひさなが)が築いたと伝わっています。
織田久長は後の清州三奉行の一家である藤左衛門家の祖とされており、楽田城の他、小田井城(おたい-じょう)を拠点とした事から、小田井織田氏とも称されています。
応仁元年(1467年)応仁の乱が起こると、織田久長の嫡子、織田敏定(おだ-としさだ)は尾張守護の先代、斯波義敏(しば-よしとし)と共に東軍に付きますが、岩倉城を拠点としていた守護代の織田敏広(おだ-としひろ)と対峙。
織田敏広が支配する守護所の下津城(おりづ-じょう)を炎上させるなど戦いを優位に進め、東軍勢力を尾張の地より一旦は追い払いますが、足利義政(あしかが-よしまさ)の命により軍を率いて再び尾張へ入り、文明10年(1478年)織田敏定の守る清州城(きよす-じょう)に攻め寄せます。
清州城攻防戦の際、織田敏定は右目に矢を受けて隻眼になるものの、刺さった矢を抜きもせずにそのまま戦いを続けた伝わっています。
文明11年(1479年)に入ると、両者は美濃守護代の斎藤氏の仲介で、織田敏定の大和守家は尾張南東部を、織田敏広の伊勢守家は尾張北部を共同統治する事で和解が成立しました。
和解が成立した後も対立を続けてきた両者でしたが、永禄年間(1558年~1570年)に入ると津島を拠点として勢力を伸ばしてきた織田信長(おだ-のぶなが)が楽田城を攻略し、坂井政尚(さかい-まさひさ)が城主となります。
坂井政尚は織田信長が入京する際に従軍しており、永禄11年(1568年)に勝竜寺城(しょうりゅうじ-じょう)を柴田勝家(しばた-かついえ)や蜂谷頼隆(はちや-よりたか)、森可成(もり-ながよし)らと攻略。
織田信長が京を掌握した後は佐久間信盛(さくま-のぶもり)を加えた5名で京を含めた畿内一帯の寺社に禁制を出すなど文武において織田軍の一角を担っていました。
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元亀元年(1570年)越前攻めに従軍し、姉川の合戦の際には織田勢の先鋒を務めますが、嫡子の坂井尚恒(さかい-ひさつね)が16歳の若さで討ち死にを遂げてしまいます。
その後、坂井政尚も比叡山攻囲戦で戦死したため、楽田城には梶川高盛(かじかわ-たかもり)が入り、本能寺の変で織田信長が死去した後は、尾張を治める織田信雄の配下として、尾張北方の各城を支配しますが、小牧長久手の戦いでは豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)の武将である堀秀政(ほり-ひでまさ)が入城し、後には豊臣秀吉も陣所として在陣したと伝わっていますが、合戦後の講和条件の一つとして、楽田城は破却され廃城となりました。
交通アクセスと登城
推奨ルート:
※駐車場は無いため、徒歩での訪問となります。
※公共交通機関を利用する場合、名古屋鉄道小牧線の楽田駅が最寄り駅となります。
楽田駅→(徒歩5分)→楽田城北之門旧跡→(徒歩10分)→楽田城南門旧跡→(徒歩10分)→楽田城址→(徒歩3分)→楽田小城址碑→(徒歩5分)→楽田城裏門旧跡
楽田駅を出て西に進むと県道27号(旧国道41号)にある若宮信号交差点に出ます。
信号を渡り、次の路地(稲置街道)を南に進んだ先に建つ神明社(犬山市五郎丸新田組67)の向い側に楽田城北之門旧跡の碑が立てられています。
稲置街道をそのまま南に進むと県道27号線に合流しますが、その手前にある烏杜天神社境内(犬山市本町101の北側)に楽田城南門旧跡の碑が残されています。
県道41号線を北上して横町の信号交差点を東に入り、名鉄小牧線の踏切を渡った先、北側の住宅地の中に楽田小学校(犬山市城山97)がありますが、小学校の敷地一帯が楽田城跡です。
昭和55年(1980年)までは天守台が残されていましたが、運動場にするために破却され、小学校の北西角地に碑とわずかながらの土塁が現存しています。
小瀬甫庵(おぜ-ほあん)の『遺老物語(おきなものがたり)』には、永禄元年(1558年)に楽田城中に檀を築き、その上に櫓を建てて殿主と呼んだと記されていますが、小瀬甫庵が記した他の著作では創作や誇張された伝承が多く取り入れられており、正確性は薄いものの、文献上に現れる最も古い殿主とされています。
楽田小学校の北側にある須賀神社(犬山市西北野87)は周囲より2~3m程高く、曲輪の一部と思われます。
境内には楽田小城址の碑が立てられています。
住宅地の間にある路地を北に進むと県道177号線(大県神社線)に出ますが、犬山市裏之門147の南側にある駐車場の片隅に電柱が立っています。
電柱脇には楽田城裏門旧跡の碑が立てられていますが、経年劣化の影響もあり一部が補強されています。
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その他関連施設等
・大懸神社
愛知県犬山市宮山3
・青塚古墳
犬山市青塚141-22-3
・小田井城
清須市西枇杷島町小田井2
・下津城
稲沢市稲島6
(寄稿)だい
・どうする家康の舞台「岡崎城」下を巡る~築山殿と岡崎信康の首塚
・三河・市場城の解説~中世城郭と近世城郭・桜と紅葉
・当サイトで紹介中「日本全国のお城・オリジナル地図」
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