伊勢・大河内城
伊勢・大河内城 (おおこうちじょう) は三重県松阪市大河内町にある平山城で標高110m、比高40mほど。
別名は大河内御所とも言う。
最初の築城は南北朝時代で、応永22年(1415年)に南朝に味方していた北畠顕雅が築いたとされる。
北畠顕雅は、伊勢国司で3代・北畠満雅(きたばたけ みつまさ)の弟。
大河内顕雅
大河内顕雅(おかわち あきまさ) は前述したとおり北畠顕泰の3男。
1414年、伊勢国司・北畠満雅は室町幕府に対して伊勢で挙兵し、坂内雅俊の伊勢・坂内城を攻略した。
そして、実弟である・北畠顕雅は伊勢・大河内城に入ると大河内顕雅(おかわち あきまさ)と称し、北畠一族・大河内氏の祖となった。
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なお、北畠顕能の孫で木造顕俊の2男になる北畠顕泰の養子・木造俊康(木造俊泰)は京都に住んで足利将軍と親しかった為、本家・北畠満雅の南朝と対立。
そのため、北畠満雅は伊勢・坂内城も攻略し、木造俊康(木造俊泰)は本拠を北にある木造城へ移している。
北畠氏は玉丸城・多気城・坂内城にも一族を城主として配置し、北畠満雅自身は阿坂城に籠城して幕府軍に対抗している。
伊勢・大河内城主になった大河内顕雅は、兄・北畠満雅をよく支援した。
しかし、正長元年(1428年)に長野満藤・仁木持長・一色義貫らとの岩田川の戦いにて兄・北畠満雅が討死。
維持の北畠教具はまだ7歳だったため、大河内顕雅が政務を代行して三宝院満済と赤松満祐を介し、室町幕府6代将軍・足利義教と和睦した。
1440年、室町幕府は伊勢守護・土岐持頼(世保家)を誅殺して一色教親を伊勢守護に任じている。
ただし、伊勢の国政は伊勢国司・北畠家が担当した。
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北畠一族は田丸御所(田丸城)・坂内御所(伊勢・坂内城)・大河内御所・(伊勢・大河内城)の3家が北畠三御所と称されている。
その中で大河内氏が代々筆頭とされ、北畠宗家が途絶えた際には大河内氏が宗家を継ぐ立場となった。
戦国時代に入ると8代当主・北畠具教が隠居したころ、織田信長が伊勢への進攻を開始。
永禄11年(1568年)以降、神戸氏・長野工藤氏などが織田家に降伏しためため、北畠具教と9代・北畠具房は本拠地を霧山御所(霧山城・北畠氏館)から伊勢・大河内城に移した。
永禄12年(1569年)8月28日から織田勢(蒲生氏郷は初陣)の攻撃を受るが、北畠勢は約7000にて籠城しており、大河内城の戦いとなったが10月3日に和睦。
織田信雄(織田信長の次男)が北畠具教の娘・雪姫の婿となって北畠家の家督を譲り、北畠具教は伊勢・三瀬館にて隠居生活を送った。
こうして、大河内城には織田信雄(北畠信雄)が入ったが、天正4年(1576年)に伊勢・田丸城に移転したため、大河内城は廃城になった。
現在ある大河内神社の境内が本丸。
登城する場合には大河内地区市民センターの脇に未舗装の大きな駐車場があり利用でき、案内板やパンフレットなどもある。
交通アクセス
伊勢・大河内城への行き方・交通アクセスだが、電車・バスの場合にはJR紀勢本線/近鉄山田線の松阪駅から三重交通バス「道の駅飯高駅」方面もしくは「柚原ゆき」バスに乗り「大河内バス停」下車。
ただし、かなり遠い。
クルマの場合には大河内地区市民センターの脇に案内板と大きな駐車場がある。
そこから歩いて行くと参道入口。
駐車場がある場所を当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面にてポイントしている。
・伊勢・霧山城(北畠氏館・霧山御所)【続日本100名城】東御所(六田館)など多気の北畠氏本拠地
・北畠具教と雪姫~信長に乗っ取られた伊勢国司の末路
・三瀬館(三瀬御所)の解説【三瀬の変】北畠具教の隠居城
・笠木館(笠木御所)の解説~館と言うよりは笠木城と言って良い巨大な館跡
・木造城(こつくりじょう)わかりやすい解説~北畠一族である木造具政と木造城の戦い
・蒲生氏郷~2人の天下人から厚く信頼され戦国の世を駆けぬけた希有の智将
・田丸城をわかりやすく解説【続日本100名城】伊勢・田丸城の様子「田丸直昌とは」
・松坂城の歴史解説【日本100名城】駐車場の場所など~服部一忠・古田重勝とは
・名古屋方面の観光に便利なオリジナル地図
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