木造城とは
木造城は三重県津市木造町にある平城で、別名は木造御所とも言う。
ずっと木造城は「もくぞう-じょう」と読むものと思っていたが「こつくり-じょう」と言うのが正解らしい。
最初の築城は南北朝時代の貞治5年・正平21年(1366年)に木造顕俊が築いたとされる。
南朝に仕えた伊勢国司・北畠顕能の子が木造顕俊(こつくり-あきとし)となる。
2代・木造俊通には子がいなかったため、木造顕俊の子(養父は北畠顕泰)である坂内城主・木造俊康(北畠俊泰)が3代当主となった。
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1415年春、伊勢国司(本家)・北畠満雅が反幕府として挙兵し木造城が落ちると、在京していた北畠俊康は土岐持益・仁木満長ら足利幕府勢に味方して伊勢に進攻。
長井良右衛門や松田小太郎などの内通もあり、木造城にいた波瀬城主の坂内雅俊(北畠雅俊)を破ると、木造俊康は木造城に復帰した。
ただし、この頃の木造城は木造古城とでもいうべきか、現在の城址碑がある場所から300mほど南側にあったらしい。
1416年、木造俊康は権大納言に任じられ、翌年には正二位となっている。
このように北畠氏の庶家が木造氏であったが、室町幕府からは北畠宗家と同じくらいの待遇を受けており、応仁の乱となると北畠宗家と対立した。
戦国時代に木造氏は木造具康などが戸木城や川北城を築城。
木造俊茂は1528年から3年かけて木造城を改修したが、出家したのち子の木造具康を殺害した。
そのため、木造家には北畠晴具の3男・木造具政(こづくり ともまさ)が入って家督を継承している。
ただし、木造具政は1544年に伊勢・戸木城を築城して本拠を移したと考えられる。
永禄12年(1569年)5月、織田信長が伊勢へ侵攻すると、先鋒を務めた滝川一益はは、木造家の家臣・滝川雄利と柘植保重(柘植三郎左衛門保重)調略。
そして、木造具政を織田勢に寝返らせた。
そのため、兄・北畠具教は木造城を包囲したが周囲には沼などの低湿地が広がっていた事もあり、なかなか落とせないところに、織田勢10万の大軍が迫ってきたため伊勢・大河内城に籠城した。
織田信長を木造城で迎えた木造具政は、織田勢の先鋒となって道案内し伊勢・大河内城を攻撃している。
そして、木造具政は伊勢・田丸城に入った織田信雄(織田信長の2男)の家老となった。
1584年、羽柴秀吉の命にて蒲生氏郷が南伊勢12万石となって伊勢・松ヶ島城に入ると、織田信雄に従っていた木造具政は戸木城にて抵抗。
そのため戸木城が蒲生氏郷に囲まれ、織田信雄が豊臣秀吉と和議を結ぶと木造具政は降伏して城から退去したと言う。
木造氏は北勢の伊勢・田辺城(北勢町)に移ったとされる。
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木造城址から南方にある集落はかつての城下町とされ、木造神社や引接寺など木造氏ゆかりの社寺があるようだ。
交通アクセス
木造城への行き方・交通アクセスだが、電車の場合にはJR高茶屋駅から2.1km、徒歩約30分の距離。
クルマの場合には駐車場はないが、城址の前の道路は交通量は少な目。
木造城がある場所を当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面にてポイントしている。
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