三重県

三瀬館(三瀬御所)の解説【三瀬の変】北畠具教の隠居城

三瀬館(三瀬御所)

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伊勢・三瀬館

伊勢・三瀬館(みせやかた)は、三重県多気郡大台町上三瀬にある平城(館跡)で、北畠具教三瀬館、三瀬御所とも言う。
最初の築城は戦国時代とされ、元亀2年(1571年)北畠具教によって築かれたとされる。
平地にあると言うよりは、背後の山すそを三段ほどに整地して、直下の小川の谷を天然の堀としたような構造と言え、背後の山に逃げることもできるのである程度の防御性はある。
日当たりも良い所だ。


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永禄12年(1569年)北畠具教は、松阪の伊勢・大河内城を織田勢に攻撃されて伊勢・大河内城の戦いとなり降伏。
織田信雄(織田信長の次男)を、嫡子・北畠具房の養子に迎えた。
ただし、子の北畠具房にはまだ娘がいなかったので、雪姫(北畠具教の娘)に織田信雄は嫁ぐ形となっている。
そして北畠具教は1570年5月に出家して天覚、のち不智斎と号し隠居して、1572年に織田信雄は元服すると北畠具豊と称した。
この時、北畠具教は笠木館に退いたが、そのあと隠居城としたのが三瀬館となる。

三瀬館

子の北畠具房は「中の御所」と呼ばれている。
ただし、1573年9月頃まで実権は北畠具教が握っていたようで、正式には1575年6月に織田信雄(北畠具豊)は家督を得て、伊勢・大河内城から伊勢・田丸城に移った。


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1575年、北畠具教は更に隠居城として伊賀・丸山城の築城を検討して、天正4年(1576年)正月から人夫衆を動員して築城開始したが、織田信長と不和になり三瀬館に戻っている。

三瀬の変

織田信長は北畠一族の抹殺を決断。
まず北畠家臣の藤方朝成・長野左京亮・奥山知忠の3名を呼んで北畠具教殺害を指示した。
奥山知忠は病と称して出家したが、長野左京進は参加し、藤方朝成は家臣・軽野左京進を派遣した。

三瀬の変

1576年11月25日、織田勢の滝川雄利・柘植保重・軽野左京進が三瀬御所を包囲。
内通していた北畠具教の近習・佐々木四郎左衛門が長野左京進ら屋敷内に通し、北畠具教に面通りさせると長野左京進(長野左京亮)は槍で北畠具教を突いた。
塚原卜伝直伝の剣豪である北畠具教は太刀で反撃しようとしたが、佐々木四郎左衛門が事前に細工していたため、刀を抜くことが出来ず討死したと言う。享年49。

その後、三瀬御所に討ち入った織田勢は徳松丸(北畠具教の4男)、亀松丸(北畠具教の4男)らも殺害。
他に北畠家臣14人の武将が殺害され、30人余りの家人もそれに殉じたと言う。
北の方((北畠具教の正室)らは走って逃げようとして御所内は混乱状態となった。

三瀬御所

一方で伊勢・田丸城の織田信雄(北畠具豊)は同じ日に饗応の席と偽って、北畠一族の長野具藤(北畠具教の次男)、北畠親成(北畠具教3男)・坂内具義(北畠具教の娘婿)の3名を招き入れた。
そして、日置大膳亮・土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らが殺害を実行し、他に城内にいた坂内千松丸(北畠具義の長男)、波瀬具祐・岩内光安らも誅殺された。
また、病の治療のために田丸に滞在していた大河内具良(大河内教通)も、見舞いと偽って訪れた柘植保重・小川久兵衛尉が刺客となって殺害している。

北畠具房の身柄は滝川一益が預かり、安濃郡河内に3年間幽閉されている。

北畠具教の首は加留左京進の家臣・伊東重内らにより運び出されたが、駆け付けた芝山秀時・大宮多気丸らに野々口(飯南郡飯高町)にて奪い返され、芝山秀時の父・芝山秀定(芝山出羽守秀定)により御所尾山(松阪市飯高町野々口)に埋葬されたとされる。
なお、三瀬館の付近には北畠具教の胴塚と北畠神社がある。

残された北畠家臣らは北畠政成の伊勢・霧山城霧山御所)に集まって籠城したが、羽柴秀吉・神戸信孝・関盛信ら1万5000の織田勢に包囲され霧山城は陥落。
北畠政成・波瀬具通らは自刃した。
12月15日には滝川雄利と柘植保重の讒言により津田一安が粛清されている。


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こうして北畠家の南伊勢5郡の勢力は織田信雄の支配下となった。
三瀬館は織田信雄の家臣・森雄秀(森清十郎雄秀)に与えられている。
<注釈> 伊勢・中江城主である生駒正成(森正成)の次男が森雄秀。

ちなみに近くの下三瀬城(三瀬城砦)の築城は永禄年間(1558年〜1570年)に三瀬左京とあるため、三瀬にはもともと在地武将がいたようだ。

北畠具教の胴塚

三瀬館の脇を流れる小さな渓谷の橋を渡ったすぐ先に北畠具教胴塚があり、三瀬館跡から徒歩1分で行ける。
三瀬の変で不運の死を遂げた北畠具教と家臣らの霊を祀っているらしい。

北畠具教胴塚

民家の脇に小道があり、埋葬したと思われるところに板状の石が何個もおかれていると言う感じでいかにも胴体の墓といった場所であった。

北畠具教胴塚

地元の皆様で綺麗になさっておられる様子で、丁重にお参りさせて頂いた。

交通アクセス

JR紀勢本線の三瀬谷駅から約2km、徒歩約20分。
城址の場所に直接駐車可能であり、駐車場は当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
アプローチの道路は何箇所か曲がるのでスマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定するのをお勧めしたい。(徒歩ナビとしても可能)

近くの三瀬砦とセットでどうぞ。

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高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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