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河和城のちょこっと解説~城主・戸田守光は小田原攻めにて討死し領民が蜂起

河和城

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河和城とは

河和城(こうわじょう)は愛知県知多郡美浜町河和西谷にある平山城で標高32m。
最初の築城は不明だが、室町時代の長禄年間(1457年〜1460年)に三河・田原城主の戸田宗光が築いたと伝わっているようだ。

しかし、戸田宗光は最初、上野上村城(三河・上野城)が本拠であり、渥美半島に進出したのは応仁の乱となってから(1467年~)と考えられる。
そして、三河・田原城を築いたのは1479年とされるため、三河・田原城から西へ侵攻し1460年以前に河和城を手に入れていたとは考えにくい。

河和城

戦国知多年表によると、河和城主として戸田氏が登場するのは文明二年(1470年)とされる。
守護の一色政照が京での戦いに明け暮れ衰退したのは応仁の乱になってからのため、戸田宗光は1470年頃に河和城を手に入れ渥美半島への足掛かりを得たと考えるのが妥当であろう。

戸田憲光(戸田宗光の子)もはじめ田原城にいたが、永正六年(1509年)に3代・戸田光政に家督を譲ると河和城に隠退したようで河和殿と呼ばれた。
そして子の戸田万五郎親光が河和城を継いだので分家(河和・戸田氏)となったようで、戸田親光、戸田繁光と続き、緒川城の水野氏と争ったという。

戸田守光(戸田孫八郎守光)は、刈谷城主・水野忠重の姪(水野信元の娘)を正室に迎えて和睦した。


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本能寺の変のあとの1584年、清洲城主・織田信雄の命にて、羽柴秀吉との戦いに備えて河和城が改修されている。

1590年、豊臣秀吉小田原攻めでは、織田信雄が率いた尾張衆の一員として戸田守光が出陣。
織田勢は伊豆・韮山城の戦いを経て小田原城の北側に布陣したが、戸田守光は討死した模様だ。
その知らせが河和に届くと領民が河和城を攻撃した破壊したとある。
純粋な農民は満足な武器を持っておらず蜂起することはまずないので、旧領主の旧家臣が帰農して武士を辞めていたなど不遇の扱いを受けていた領民が反乱を起こしたと考えてよいだろう。

戸田守光の妻は3人の子ととも野間大御堂寺(野間大坊)に逃れ、剃髪すると妙源禅尼と称した。
その後、叔母・於大の方を頼って江戸城下に移り住んだと言う。
 
1597年、亡き戸田守光の遺児・万千代(水野惣右衛門光康)は徳川家康から武蔵国内に700石を賜り水野氏を勝した。(河和・水野家)
1600年、関ヶ原の戦いの戦いのあと、水野光康(水野惣右衛門光康)は河和城1460石とにって故郷に復帰。
城跡ではなく北側の集落に屋敷を構えたと伝わる。
以後、河和・水野氏は尾張藩士となって明治まで続いた。


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雑草なども多いようなので河和城の訪問は冬場の方が良いみたいだ。

交通アクセス

河和城への行き方だが、名鉄河和線・河和駅より徒歩10分。
駐車場は民家によくあるようなブロック塀に挟まれた入口を進入すると、民家跡の土地が駐車場となっているようだ。
駐車場入口(登城口)は当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

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(株)TOLEDO、高田哲哉と申します。
20年以上戦国武将などの歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して城郭も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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