都於郡城とは
都於郡城(とのこおりじょう)は、宮崎県西都市、一ツ瀬川の支流である三財川右岸の標高105m台地上にある山城で、国の史跡に指定されています。
遠くから望みますと、舟が浮いているように見えていたことから、別名を浮舟城と言います。
南北朝時代の1335年(建武2年)に、足利尊氏から都於郡三百町を賜り、日向に下向した伊東家の宗家・伊東祐持(いとう-すけもち)による築城とされます。
伊東家は、その名のとおり静岡県の伊豆半島にある伊東荘を鎌倉時代に領した工藤一族で、曽我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の子孫となります。
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ただし、先に庶流の田島祐明、長倉祐氏などが先に日向の領地に下向しており、田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏となどが先に土着していました。
それから遅れて伊東本家の伊東祐持の子・伊東祐重が貞和4年(1348年)に日向に下向すると、一族の守永祐氏に奪われていた都於郡(とのこおり)を奪還して本拠にしたと言うことになります。
しかし、この時点で、日向・伊東家は日向守護である畠山直顕(はたけやま-ただあき)の家臣にすぎませんでした。
畠山直顕は北朝方として島津家と戦いますが、1358年に敗走します。
ただし、伊東家は続いたようで、徐々に勢力を拡大しますが、国人領主にすぎなかったころからの伊東家の本拠が、この都於郡城ということになります。
242年にわたり日向の地を治めた日向伊東家は、その栄華を極めました。
本丸・二ノ丸・三ノ丸・奥の城・西の城という5つの曲輪群で構成されており、それぞれが、大きな堀切にて分断されています。
下記は堀の下から撮影したものですが、斜面の高さは10mくらいある高いものです。
戦国時代となり、伊東祐持の子・伊東祐重のときに大修築が行われ、七つの出城(日隠城・東城・泉城・高城(南城)・向城・前城・中尾城)も整備されました。
付近には「分譲中」と看板があり、なんと都於郡城の城域の土地が販売されていて、戦国大名の居城であった都於郡城内に、住宅を建てて住むことができます。
お金持ちだったら、パッと土地契約したいところです。
1504年(永正元年)3月21日には、都於郡城にて失火があり、城外まで広く延焼し、建物の大半を消失しています。
そのため、佐土原城や宮崎城が伊東家の本城にもなっている時期があります。
伊東義祐のときには、最初から宮崎城と佐土原城に居住したため、都於郡城には嫡男・伊東義益を置いていました。
家督を継いだ伊東義益が没すると、その嫡男・伊東義賢も都於郡城主を努めています。
1577年(天正5年)の伊東崩れにて伊東義祐は佐土原城から大友宗麟を頼って逃亡。
伊東マンショの像です。
都於郡城下で生まれた一族の伊東マンショ(伊東祐益)も、この逃走に同行していますが、伊東マンショが西都の都於郡出身であることが判明したのは昭和に入ってからのことです。
島津家の占領下となると、都於郡城には鎌田政近(鎌田政親)が入城しました。
下記は本丸跡となります。
都於郡城の本丸は結構広く、周りは土塁で囲まれています。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州攻めでは、高城の戦いにおける前線基地となります。
しかし、根白坂の戦いで敗北し、都於郡城は使われなくなった模様です。
比高は100mありますので、結構な山城です。
しかし、都於郡は町全体が城跡とも言えるほど本当に広大ですが、堀の比高も凄いですし、何層にもなっている曲輪もよく整備されており、とても見学もしやすいです。
分類は山城ですが、駐車場からの高低差はあまりなく、スニーカーで十分に見学ができ、子供連れでも大丈夫でしょう。
どうしてそうなったのか不明ですが、正門の入口から近いところが本丸になっています。
となると、実際にはもっと広大な領域が都於郡城となっていたのでしょう。
ともあれ、非常に素晴らしい遺構が残っている城でして、今度はゆっくりと訪れたくなりました。
10月の第2土曜日と翌日曜日に都於郡城址まつりが開催されます。
交通アクセス
交通アクセスですが、JR日豊本線・佐土原駅からの場合バスに乗って約30分、「宮崎交通西都営業所(西都バスセンター)」バス停で下車し、バス乗り換え「都於郡」バス停下車の徒歩10分となります。
都於郡城の駐車場は無料で120台完備されており、公衆トイレもあります。
都於郡城の見学所要時間は30分~1時間30分といったところです。
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都於郡小学校と大安寺の間にある大安寺池は堀跡です。
また、大安寺の東の丘には伊東氏歴代の墓所(荒れていた墓をまとめた伊藤氏一族の墓地群)があります。
是非、お参りしたくて大安寺さんの駐車場に上がって行ったのですが、その墓所を綺麗にするため枝を伐採するなど作業中でしたので、今回は遠慮させて頂きました。
・佐土原城~伊東家の本拠としても栄華を誇り天守もあった山城
・伊東祐堯~日向伊東氏の中興の祖とされる名将
・伊東義祐~日向から南九州の覇権を争うも伊東崩れで没落
・新納院高城(日向・高城)~大友と豊臣の大軍に2度包囲されても落ちなかった頑城
・宮崎城~戦国大名の伊東氏も一時本拠とした山城
・伊東祐兵~所領を失うも巧みに戦国を生き抜き3万6000石にて復活
・穆佐城~日向守護になった畠山直顕の拠点
・伊東マンショとは~天正遣欧少年使節の代表者である正使を務める
・九州の史跡探訪用オリジナル地図(カーナビ代わりにも)
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