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雉岡城 (雉ヶ岡城)
雉岡城(きじがおか-じょう)は、埼玉県本庄市児玉町八幡山にある丘城。
別名は武蔵・八幡山城。
岡と言う漢字も使われているのになぜか平城扱いとなることが多いようだが、独立丘陵にあるとみられるので当方では丘城と分類させて頂いた。
最初の築城は諸説あるが、鎌倉街道の交通の要所である児玉にあることから、恐らくは古くから屋敷として使われていたと考えてよいだろう。
武蔵七党の児玉党の惣領家庄氏の城館があったのかも?
昭和48年、本格付近からは大量(40基以上?)の五輪塔も出土したと言う。
寛政年間(1460年~1466年)に、関東管領・上杉顕定の家臣で夏目実基(夏目舎人亮実基)が雉岡城を築城したとあるので改修したのは間違いないだろう。
<注釈> 赤松則村(赤松円心)の裔孫とされる上野・藤岡城の有田豊後守定基が、雉岡城主となって夏目を称した。
上野国志によると、当初は関東管領の本拠にしようとしたとあり、手狭なので上野・平井城に移ったと記載されている。
1467年、雉岡城主として夏目定基(夏目豊後守定基)の名がある。
1480年には安保吉兼(阿保吉兼)が武蔵・御嶽城を築城。
その年、秩父の山岳地帯に逃れていた長尾景春が八幡山(雉ヶ岡城付近)で蜂起したとあるが、太田道灌の活躍にて最後は秩父の日野城(熊倉城) での戦いとなり長尾景春の乱は終わった。
1492年、夏目定基が死去し、夏目定盛が家督を相続した。
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1558年頃、上野・平井城の関東管領・上杉憲政は越後・春日山城に逃れた。
1567年、北条氏邦によって雉岡城 (雉ヶ岡城)は落城。
のち横地忠春(横地左近忠春)が城代を務め、城が大改修されたようだ。
横地監物吉勝の嫡男・横地忠春(よこち-ただはる)は、横地吉春とも言い、もとは横地城・横地氏の子孫と考えられるが、この頃は北条氏邦の家臣となっていた。
北条氏照が八王子城を築いた際には、横地左近の弟・横地吉信(横地監物丞)と子の横地与三郎が重臣として見られる。
1569年、武田信玄が一時、雉ヶ岡城を落としたようで、近くの長泉寺には武田家の高札が残っているようだ。
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、碓氷峠を越えて来た北国軍の前田利家・上杉景勝らによって攻囲され落城した。
横地忠晴は鉢形城に逃れたとされる。
同族と考えられる横地吉信は八王子城の戦いで命を落とし、子の横地吉晴が北条氏滅亡後に井伊直政の重臣(700石)になっている。
その後、徳川家康が江戸城に入ると、松平家清(竹谷松平家)が1万石にて武蔵・八幡山城を本拠とした。(八幡山藩)
松平家清は関ヶ原の戦にて清洲城の守備を務めた功績にて、1601年、池田輝政のあとである三河・吉田城に3万石で転封(三河吉田藩)となり、雉岡城は廃城となっている。
江戸時代後半には城内は開墾され農民に払い下げられたと言う。
夜泣き石
雉岡城の本丸南側の郭の堀底に「夜泣き石」(親子石)と呼ばれる岩がある。
下記の空堀の底に岩がある。
伝承によると横地左近忠春の妾・お小夜が、城主の奥方の怒りを買って井戸に沈められ殺害された。
なんでも殿様の夕餉(夕食)に針が入っており、側女・お小夜の仕業だと思った奥方は、詳しく調べることも無く、お仕置き井戸に生きたまま沈めたとある。
そのとき、お小夜は妊娠していたようで、死後には井戸や堀の水が乳色に濁り、夜な夜などこからともなく赤子の泣き声が聞こえてきたと言う。
そして、井戸を調べてみると、底から大小二つの石が出て来たので、奥方はお小夜の霊を鎮めるため、堀端に二つの石を祀り、剃髪して喪に服したとされる。
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雉岡城跡公園として整備されているのは南端(丘側)の一部(ほうき郭など)となっている。
児玉中学校が主郭・二郭。
児玉高校が三郭・東郭・北郭と大部分は学校用地などに変貌している。
平日と言う事もあり、学校敷地の探索は自粛した。
交通アクセス
JR八高線の児玉駅から約1km、徒歩で約8分の距離と近い。
城山公園の入口に新しい公衆トイレがあり、そのトイレ前に3~4台ほどの駐車スペースがあるので助かる。
駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。
・武蔵・御嶽城(金鑚御嶽城)の解説~安保晴泰・安保泰倫
・北条氏康と瑞渓院とは~文武両道な猛将も家中や庶民を大切にした戦国大名
・武蔵・本庄城 本庄実忠が築いた中山道の抑え
・北条氏邦 (藤田氏邦)~鉢形城主として北条家を支えた武将
・鉢形城~北条氏邦が改修した城の訪問記
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