武蔵・御嶽城
武蔵・御嶽城(みたけ-じょう)は、埼玉県児玉郡神川町渡瀬にある山城で標高343m、比高200mほど。
別名は高見城とも言うが、武蔵国青梅にも御嶽城(御岳城)があるため、区分上、金鑚御嶽城と書く場合もある。
その他、日本全国に御嶽城が点在するため、ここではハッキリと武蔵・御嶽城と記載させて頂く。
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最初の築城としては、 南北朝時代に北畠顕家に属した長井実永(長井斉藤別当実永)が築城したともあるが、一般的には文明12年(1480年)に武蔵七党のひとつである阿保氏(あぼし)が築いたとされる。
平安時代末期、児玉郡神川町付近に勢力を張っていたのは丹党・児玉党・猪俣党であり、阿保氏は丹党が出自とされる。
丹党(たんとう)は第28代宣化天皇の子孫・殖栗王の後裔を称している。
また、朝鮮の高麗人、百済人、新羅人が日本の逃れてくると、下毛野国・武蔵国に住まわせたともある。
<注釈> 丹とは赤い鉱物を指すので鉄銅などの鉱物採掘技術を持っていたと考えられている。
丹基房(秩父五郎)の子・丹恒房が新里・安保を領有し、新里氏と安保氏の祖となった。
鎌倉時代、1221年の承久の乱では、鎌倉勢に安保実光の名が見られるが、その頃の本拠は安保氏館と考えられる。
<注釈> 宇治川の戦いで80歳くらいだった安保実光は討死している。
鎌倉幕府滅亡では執権・北条高時に従ったり、南北朝時代にも丹党・児玉党・猪俣党などは新田義貞に味方したため没落。
ただし、足利尊氏の先陣にて勲功があった分家筋の安保光泰が宗家・安保道堪の旧領を得て安保氏の惣領職となった。
また、1416年、上杉禅秀の乱でも丹党らは関東管領・上杉禅秀に味方したため、鎌倉公方・足利持氏によって所領を没収された。
ただし、丹党のうち阿保宗繁(安保宗繁)と阿保満春(安保満春)だけは足利持氏に属したため、児玉郡、榛澤郡、秩父郡のほぼ全域を所領として認められるも、藤田氏、秩父氏、白鳥氏、岩田氏などの抵抗にて事実上領有は叶わなかったようだ。
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1454年、山内上杉氏が雉ヶ岡城(雉岡城)を築城し、更に上野・平井城を本拠とすると、安保氏は山内上杉氏に従っている。
1478年12月、阿保氏泰(安保氏泰)は足利成氏に従って下総・境根原の戦いに出陣し千葉孝胤と戦っている。
そして1480年、上杉憲政に従っている安保吉兼(阿保吉兼)が武蔵・御嶽城(金鑚御嶽城)を築城した。
1534年、阿保全隆(あぼ-ぜんりゅう)/ 阿保泰広が金鑚神社の多宝塔を寄進している。
1551年、北条氏康の攻撃を受け、金鑚神社の社殿・堂宇も焼き払われ、降伏した安保氏は北条氏に属した。(御獄城の戦い)
なお、上杉龍若丸(上杉憲政の嫡子)は、安保泰広の御嶽城で籠城に加わっていたとされ、落城した際に上杉家の重臣・妻鹿田新助によって北条へ引き渡された。(上野・平井城で捕えられたともある)
関東管領・上杉憲政は越後の上杉謙信を頼って逃れ、東上野の赤石城主・那波宗俊、箕輪城の長野家などが北条氏に臣従している。
安保文書によると、1563年に安保晴泰(安保中務大輔晴泰)が武蔵国と上野国に知行を持っている。
1568年、安保氏は一族の長根雅楽助らと北条勢として駿河・薩垂峠に布陣し武田勢と対した。
安保泰倫は、老母を鉢形城へ人質として出しており、北条氏邦の傘下に入ったものと見られ、安保氏の城では一部北条勢(鉢形衆)が守備した。
1569年6月、多胡郡長根(高崎市)領主・小幡縫殿助と、武蔵・御嶽城の平沢政実(長井政実)が、下仁田の鷹巣城主である小幡信尚を北条氏に誘って離反させている。
1570年頃、碓氷峠を越えて上野国に侵入してきた武田勢が武蔵・御嶽城や鉢形城を攻撃。
御嶽城は落城したが、その後、安保泰倫の活躍もあり北条勢が取り返している。
ただし、再度、武蔵・御嶽城は武田勢に奪われ、上野・三ツ山城(藤岡市)から武田家臣の長井政実は(平沢豊前守政実)が城主となった。
金鑚神社も長井政実(斎藤実盛の子孫)の庇護を受けており、安保氏は滅亡したものと考えられる。
度重なる合戦時に民衆数千人は、利根川の中州に小屋を建て避難したことが文献にある。
1571年、武田氏と北条氏が再び同盟を結ぶと、神流川が国境線となったので武蔵・御嶽城は北条氏に返還されたようだ。
その後、豊臣秀吉の小田原攻め(1590年)まで、北条氏の城となっていたようだが、重要視されなくなったのか?詳細は伝わっていない。
武田信玄の死後、長井政実(長井豊前守政実)は島名城の城主として見られる。
御嶽山は標高が 550メートルあり、北関東を一望できる眺望の良い山でハイカーも多い。
東郭(法楽寺跡)には、国の特別天然記念物「鏡岩」もある。
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近くには日帰り温泉の名湯「おふろcafe白寿の湯」もあるので、タオル持参で行きたいのが神川町(かみかわまち)である。
交通アクセス
武蔵・御嶽城(金鑚御嶽城)への行き方であるが、JR八高線・児玉駅からタクシーで約15分で金鑚神社に着き奥が登城路となる。
他にもいくつか登城ルートはあるが、金鑚神社から登るのが一般的か?
金鑚神社(かなさな-じんじゃ)神社の無料駐車場・トイレ・ジュース自動販売機が利用できる。
お祭りの時期や初詣時期は駐車困難かも知れない。
駐車場の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけて訪問して頂きたい。
・本殿がない「金鑚神社」(武蔵国二宮)わかりやすく解説~坂上田村麻呂も参拝か?
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