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石井営所(下総・石井館)
石井営所(いわいえいしょ)は茨城県坂東市岩井にある標高17mの丘城。
現在の漢字地名は「岩井」と書くがおなじ「いわい」でも奈良時代には石井郷と記載されている。
低い台地が広がっており、低い湿地帯からは島のように見えたよようで、台地を島広山(しまひろやま)と呼ぶため、島広山・石井営所と記載されていることも多い。
なお、平将門関連の舘跡・城跡は、営所だとか陣営と呼ばれていることが多いが、それは将門記などの史料にそのように明記されているためであり、通常であれば下総・石井館などの表記になるか?
石井営所の場所には石碑もあるが、予定外の訪問でクルマを止める場所がすぐに見つからず、雨も降っていたので写真類は再訪させて頂いたあとに充実させたい。
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なお、石井営所が将門記に登場するのは937年と、平将門が討死する3年前となる。
それまでは、下総・豊田館などが主に出て来るので、もしかしたら、石井営所はあとになって築かれた可能性も考えられる。
その937年、平将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が、平良兼のスパイとなって、石井営所を様子を調べて平良兼に報告した。
内情がわかった平良兼は精兵80騎で石井営所に夜襲をかけたが、平将門の郎党らによって撃退されたとある。
その頃、平将門は出陣するのに3000の兵を集めたりしているので、石井営所は、家臣らの居館、郎党などの住居・宿舎や食糧庫、馬繋ぎ場などがあり、かなり広大であったと推測されている。
そして、石井営所は、平将門の政治・経済・軍事の本拠地とになったが、940年、藤原秀郷と平貞盛の軍勢に破れ、石井営所の建造物などは焼き払われた。
敗れた平将門は、石井の北山に最後の布陣をしたともされる。
石井の井戸
延命寺の近くに石井の井戸があり、星見の井、将門産湯の井などとも言われている。
丘の上にある岩井営所から見ると、丘の麓の低地に石井の井戸があると言う立地になり、実際には井戸と言うよりは「湧き水」だったようだ。
平将門が新しい本拠地を構えるのに周辺を回った際に、喉が渇いて困ると東南の方から「水」という声がしたと言う。
見ると老翁が立っていて、大岩を地面に打ち込むと水が涌き出たとされる。
その老翁は消えさったが、この老翁を祀ったのがすぐ近くの「一言神社」で社伝によると、創建は承平5年(935年)で祭神は一言主命である。
石井の井戸は「岩井戸の宮」とも話ばれる。
石井の井戸の前に3台ほどの駐車スペースあり。
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他にも近くに九重の桜があるが、これは謀反の疑いで京都に出頭した平将門が罪になるも、すぐに朱雀天皇の元服による恩赦があり、帰国が許されたので、感謝して、京から桜を持ち帰ったものとされる。
他にも近くには、延命寺、国王神社と平将門ゆかりの史跡がある。
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