常陸・塚原城
常陸・塚原城(つかはらじょう)は茨城県鹿嶋市沼尾にある標高34mほどの平山城で、常陸・塚原館、鬼塚館、沼尾城?とも言う。
最初の築城は不明だが、常陸の塚原氏と言うと大掾氏(鹿島氏)の一族。
諸説あるため、全部が正しいとはとても言えないが少し詳しく明記してみたい。
桓武平氏平高望・平国香を祖とし、常陸・鹿島城の鹿島氏15代・鹿島義幹の4男・塚原安重がはじめて塚原氏を称したともある。
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塚原卜伝
塚原卜伝 (たかはら-ぼくでん) は、延徳元年(1489年)に鹿島神宮の神職・卜部吉川家に生まれた。
名前ははじめ吉川朝孝、その後、塚原高幹と称し、号が卜伝となる。
通称は塚原新右衛門高幹、塚原土佐守、塚原土佐入道。
父は卜部覚賢(吉川覚賢)であり、鹿島氏の四家老のひとり。
兄に吉川常賢がいる。
JR鹿島神宮駅と常陸・鹿島城の近くに、塚原卜伝の銅像もある。
幼い頃から父・吉川覚賢(よしかわあきかた)と祖父・吉川呼常から、剣術「鹿島神流」(鹿島古流・鹿島中古流)の手ほどきを受けた。
懇願されて塚原城主・塚原安幹の養子となり「香取神道流」(天真正伝香取神道流)を学んだ。
更に鹿島氏四家老のひとりで鹿島神宮の神職・松本政信(松本備前守政信)に師事して剣の腕を磨いた。
また、塚原卜伝は16歳から武者修行による修練を重ね、その後、鹿島神宮に千日参籠し、鹿島の太刀の極意を悟ると流名を「鹿島新當流」(かしましんとうりゅう)と改めた。
そもそも実家の常陸・吉川家は、雷大臣命(いかつおみのみ)が鹿島に土着して吉川家の始祖になったとある。
その子孫である國摩真人(くになずのまひと)は、鹿島神宮の祭神・タケミカヅチより、神妙なる韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)の術を授かり、韴霊の法則を会得したと言う。
この武道は「鹿島の太刀」として常陸・吉川家に継承された。
塚原卜伝の剣術修行では「真剣の試合19度」、合戦の出陣では「戦場の働き37度」の経験があるが、一度も不覚を取っておらず、矢傷6ヶ所以外に傷一つ受けなかったと言う。
また、立会って敵を討取ること212人ともある。
30歳の頃には3度目の武者修行に出発してこれが修行としては最後になったともある。
鹿島氏では家督相続の争いが絶えず、1524年、高天ヶ原の戦いでは吉川覚賢に従ったのか、塚原卜伝も加わっていたと言う。
45歳のとき妻・妙(塚原安義の娘)と結婚したともある。
その後、10年ほどで妻が亡くなると、養子にした塚原彦四郎幹秀(ひこしろうもとひで)に家督を譲った。
68歳の頃、塚原卜伝は室町幕府将軍の足利義輝と足利義昭に一太刀を伝えるなど諸国を巡った。
北畠具教・武田信玄にも秘術を説いており、弟子に山本勘助がいる。
また、故郷の鹿島に戻ると、塚原城近くの草庵に住み、弟子に松岡則方(松岡兵庫助)、諸岡一羽、真壁氏幹(真壁道無)、斎藤伝鬼房などがいる。
元亀2年(1571年)に死去。享年83
法名は宝剣高珍居士。
塚原卜伝の墓
墓所は梅香寺だが、現在、廃寺になっているようで塚原卜伝の墓だけが存在する。
塚原卜伝に子はいなかったようで、弟子から後継者を選んで養嗣子にしたが、2代目・彦四郎幹秀(ひこしろうもとひでという)で途絶えたと言う。
その後、塚原卜伝の剣術は甥の吉川晴家に伝えられ「鹿島新當流」として茨城県の無形文化財に指定されている。
塚原卜伝墓所の駐車場には5〜6台止められる。
案内板などはありますが、トイレは有りません。
中古ですが充分でしょう |
さて、常陸・塚原城のほうだが、1591年、水戸の佐竹義重・佐竹義宣は「南方三十三館」と称された鹿島・行方の大掾氏一族を排除する。
鹿島城主・鹿島清秀をはじめとした、烟田城・玉造城・行方・手賀・島崎城らの一族を常陸・太田城の梅見に誘い一気に謀殺した。
この報せを受けた常陸・鹿島城では、鹿島清秀の妻と三家老らが籠城。
佐竹税は町田備中守を大将として諸城は次々と陥として鉾田から鹿島城へ進軍して大砲を撃ちこんだ。
常陸・鹿島城は2週間耐えたと言う話もあるが、落城すると鹿島清秀の妻は自害。
このとき、塚原城主の塚原義安・塚原義隆の親子は討死・自害したとある。
交通アクセス
塚原卜伝の墓の場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
道路は多少狭いがすれ違いはできるので心配ない。
もちろん、鹿島神宮とセットでどうぞ。
・常陸・鹿島城の歴史解説~鹿島政幹・鹿島義幹など鹿島氏の滅亡まで
・常陸・島崎城の歴史解説~鹿島神宮の大使役(鹿島大使)も務めた島崎氏
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